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NHKアジア・フィルム・フェスティバル
作品に人々の生き方が反映

 1995年から始まった「NHKアジア・フィルム・フェスティバル」(2010年10月23日〜27日 NHKみんなの広場ふれあいホール)は、11月28日に終了した「東京フィルメックス」と同じく今年で11回目を迎えた。元来、NHKが海外と共同製作を1年おきに行い、それに関連し、他のアジア映画も併せて見せる企画が今フェスティバルである。特に、共同製作作品のない年は絶対的に出品される作品が少なく、今年は4本の新作と、アンコール上映作品として、過去の共同製作作品3本が加えられた。
 
新作の本数はいささか足りないが、他の「東京国際映画祭」や「フィルメックス」とは違う味わいがあり、アジアの人々の生き方、暮らし方が反映された作品が揃い、少なくとも、オーソドックスなアジア作品に触れられる意味で興味深い。

根深い宗教対立

 「デリー6」(インド、メヘラ監督)は144分とインド映画らしく長尺であるが、飽きさせず最後まで見る者を惹きつけるパワーがある。内容的には、インドの伝統家族のしきたりと大家族制度、ヒンズー教徒とイスラム教徒との危ない共存と抗争、美男美女の恋の顛末、そして、怪獣の出現、つなぎに歌と踊りが満載。インドの大衆映画のエッセンスがしっかりと盛り込まれている。インドでは、観衆は歌と踊り目当てのフシがあり、それが長尺の因ともなっている。

  主人公の美青年はニューヨーク在のインド人。顔は純生インドだが、心はすっかりアメリカ化。その彼、故郷で死にたいと頑張る祖母のお供で、生まれて初めてインドの土を踏む。アメリカ育ちの彼には、何もかも珍しく、興味津々の態。住居も、古いデリーの一角で、人呼んで「デリー6」。いわゆる現代インドの真っ只中に、到着した途端からインド漬けになる。それを馬鹿にせず、面白がるところでハナシの裾野が拡がる。口やかましい叔母たち、何でも神様優先の日常生活。メイン道路の大渋滞どこ吹く風で出産する牛と、諦めきった運転する人たち。美男美女の大恋愛と父親の介入。時間の流れ、人間関係の濃密さが、インドの一面を写し出す。これだけ通俗的なエピソードを並べ、歌と踊りで乗せ、見せきるインド映画の見本のような作品。

  ヒンズー教徒、イスラム教徒が平和共存する暮らし、丁度、昔のアラブとイスラエルの関係を思い起させる。それが、今作の場合、黒猿の存在でかき乱され、大騒動となる。現代のパレスチナ問題を見ているようだ。登場人物の家庭は中流以上と見るが、総てに宗教的約束事で成り立つことの異文化的面白さがある。黒猿の登場は、ハナシとしては両宗徒の対立を引き出す小道具として用いられているが、果して必要であったか、いささか疑問がわく。いづれにしても、楽しい一作だ。  アジア映画の最大の魅力は、その土地の人々の暮らし振りが等身大で伝わるところにある。その伝統を引継ぐのがマレーシアの「アイス・カチャンは恋の味」(アニュウ監督)である。


青春譜


「アイス・カチャンは恋の味」
(c)Asia Tropical Films SDN BHD
 マレーシア出身のアニュウ監督は、台湾で活躍するシンガーソングライターで、監督、脚本、主演をこなしている。一件生意気ネエちゃん風の彼女、しかも反抗的で、その存在が中々良い。見据える視線の先は家族であり、個が群となり、また個へと復元する動きの面白さを捉えている。ハナシの舞台はマレーシアのカフェ、日なが一日近所のお父さんたちがたむろし、カフェの女主人のブラウスの胸の開き具合に好色な好奇心を露骨に示す。彼女も慣れたもので、「それがどうした」と軽くいなす。そこに主人公の美少女が同居する。親戚筋の娘で夫の母親に対するDVを避けての避難だ。一家の幼い少年は、綺麗なお姉さんが来たと胸をときめかす。しかし、幼すぎる少年に気の強い美少女は見向きもしない。

  少年は、恋心を紛らわすために、ひたすら画を描く毎日。幼い少年の目から見た家族像が少年のナレーションで語られる。そこで、マレーシア社会独特の大家族の関係が明らかになる。少年たちの悪ガキ仲間、兄弟、美少女の子供時代、両親、そして、美少女の母親でオバさん格のもう1人の家の大黒柱。それぞれの人間関係が面白おかしく語られる。このあたり、とにかく口やかましく、うるさいマレーシア社会、家庭のおおらかさが滲み出ており、台湾映画と一胸通ずるものがある。ラストは、美少女がペナンの父に会いに行くが、父親は賭博の胴元、美少女はここで母が家を出た理由を理解する。全体にコメディタッチで日常のささいな出来事を軽妙にすくい取っている。アイス・カチャンとは、氷イチゴのようなマレーシア独特の冷菓。シャイで画ばかり描いている少年は勿論ただの片思い。他のガキ仲間も成長し四散、マレーシア版青春譜。


変りゆくキルギス

「明りを灯(とも)す人」

 政情不安なキルギスを描くのが「明りを灯す人」(アリム・クバト監督、キルギス、フランス、ドイツ、イタリア、80分)製作は国際共同合作。舞台はキルギスの小さな村。今や、アジアと認知される中央アジアからの出品。「明りを灯す人」とは、裕福でない家庭に無断で電線を引張りこむ電気技師のことで、監督のアリム・クバドが自ら主役に扮し、彼の人の好い、田舎のおやじ然とした役作りは極まっている。彼の盗電ともいえる行為は、善意から出たもので、村人たちも黙認している。ある時、作業中に感電した彼は以前とは様子が変り、同時に中央での政変のニュースが伝えられる。この2つの係わり合いの必然性がいまひとつはっきりしない。政変以降、中央の以降を受けた行政は、積極的にビジネスを取り込み、中国人ビジネスマンが商売のネタを求め、村に現れ始める。のどかな、連峰を背景とし、風車が廻る村の様子が変化を帯び始める。

  中国人と組み、一儲けを企む地元有力者は、彼らを接待用パオに招き入れる。晩餐、音楽、そして、大っぴらな性交サーヴィスと色仕掛けのもてなし。その場に招かれた電気技師は「余り」とばかり、憤然と退席する。怒った有力者たちは、彼を川に沈め溺死させる。中央の一方的支配と、地元有力者の専横、何処で見られる悪構図だ。少しばかりの義侠心で村人に感謝される主人公、平穏な暮らしを破壊する拝金主義、キルギス一国だけの問題ではないことを思わせる。テンポが遅い中央アジア作品としては、珍しく、畳み掛けるような話法が、作品に弾みをもたらす。 行き場のない若者の閉塞感は世界的現象で、内モンゴルでも同様だ。


中国映画界の若手の活躍


「冬休みの情景」
(c)Capricci

 中国には巨匠チェン・カイコーを始め、若手ではジャ・ジャンクーなど、世界的監督が多く、今回出品の「冬休みの情景」(リー・ホンチ監督、91分)の同監督は若手の注目株で、今作は2010年ロカルノ映画祭で金豹賞(最高賞)を獲得している。 今作が3作目の新人監督だが、実力派と目される。 舞台は内モンゴル、アパート群が立ち並び、通りの人通りは僅か。時折、若者たちがたむろするくらい。典型的なさびれた地方都市の光景。時が止まったような退屈な日常の連続で、何も起らない。たむろする青年たちも無言に近い。ある時、その一人の家に彼らは集る。そこには、老人と幼児が無言で座っている。幼児は貰われ子らしく、将来は孤児になりたいと言う。少年たちのグループの少女は、月に一度は別れたいと一人に告げる。これも変化を求める心情。学校では、教師が「お前らはクズ」と罵倒する。生徒たちは無反応。しかし、彼は教室を間違え、隣りであることを知らされる。巧まざるユーモア。画調も極めてシンプルで、調度品は椅子と寝台だけ、壁は白一色、明らかにスタイリッシュな映像表現を狙っている。意表をつく発想と実験性に富む手法。中国のニューウェーヴといえよう。

おわりに

 オーソドックスなスタイル
 等身大の人間模様の面白さ
今フェスティバル、近年アジア映画が少しずつ色合いを変えている中では、アジアらしい、オーソドックスなスタイルを堅持している。そこには、ほっとする等身大の人間模様の面白さがあり、そこに、アジア映画ファンは惹かれる。さらに、今まで少なかったタイ、マレーシア、フィリピンなどの国が抬頭し、国際的な映画祭では、全体の視線が南へ写っている傾向が見受けられる。今回は、前述のように作品数は少なかったが、アジア映画の面白さは味わせてくれた。




(文中敬称略)
《了》
映像新聞 2010年12月27日号掲載

中川洋吉・映画評論家