映画「オレンジと太陽」
衝撃的な英国の植民地政策}
「児童移民」の実話を描く
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ジム・ローチ監督の長編映画初作品『オレンジと太陽』は、衝撃的だ。実話に基き、英国で起きた児童移民の事実が明かされる。児童移民とは聞こえはいいが、実際は拉致に近い国家的犯罪である。この事実、英国では殆ど知られておらず、むしろ、受入れ国のオーストラリアで若干知る人がいるのみで、歴史の闇とも言える事件だ。
この移民、戦前、我が国で行われた美辞麗句で押し出された満蒙開拓団や、大量の朝鮮人強制連行事件を思い起こさせる。
タイトルの「オレンジと太陽」とは、移民の仕掛け人がオーストラリアへ子供たちを送り出す時の殺し文句である。
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「オレンジと太陽」エミリー・ワトソン
(c) Sixteen Midlands Ltd
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児童移民は19世紀から始まり、1970年まで続いた。その総数は約13万人、他にカナダ、ニュージーランド、旧ローデシア(現ジンバブエ)にも送られたが、オーストラリアが圧倒的に多い。
英国は福祉の先進国であり、時に、その政策の行き過ぎも起る。冒頭シーンではソーシャル・ワーカー(エミリー・ワトソン)が母親失格と判断された若い女性から赤児を採り上げるシーンから始まる。ケン・ローチ監督の「レディバード・レディバード」(94)で福祉担当者が問題ありと判断された女性から、子供を強制的に取り上げるシーンを思い浮かべさせる。それもその筈、脚本家が同一人物のロナ・マンロであり、彼女は「レディバード・レディバード」の経験から、子供を取り上げる辛い話には二の足を踏んだとインタヴューで述べている。ジムの父、ケン・ローチ組は同じ脚本家、プロデューサーの神輿の上に監督が乗るスタイルが常態化している。息子ジムもこのスタイルを踏襲したものと思われる。彼の2作目「キングスウェイ」も今作同様ロナ・マンロと組んでいる。
原作は、英国・ノッティンガム在住のソーシャルワーカー、マーガレット・ハンフリーズの実話小説「からくりのゆりかご−大英帝国の迷い子たち」であり、日本図書刊行会から翻訳出版されている。
このマーガレットに、ラース・フォン・トリア監督の「奇跡の海」(96)(カンヌ映画祭審査員特別賞)で、一躍演技派女優として注目されたエミリー・ワトソンが起用された。一見、神経症的な演技を得意とする彼女は、今回は、意志の強い女性へと役作りを変えているが、これははまり役だ。
普通の家庭を持つワーキング・ウーマンの主人公は、仕事では母親失格の女性から赤児を取り上げ施設に保護をしていた。大変に辛い仕事であるが、心を鬼にしての職務の遂行であった。
この彼女、養子に出された人をサポートする会合に定期的に出席したが、ある時、1人の女性から「自分は誰なのか」を知りたく、4歳の時、英国の養護施設からオーストラリアに送り出され、その時、多くの幼児たちと一緒であったことを話した。
マーガレットにとって、にわかに信じられぬ話であったが、その後、別の女性から、オーストラリアから音信不通の弟による手紙が届いた話を聞き、自ら調査する決意をし、職場の上司から強引に2年間の休暇を取ることを承諾させ、英国、オーストラリア間を往来することとなる。当然、家庭人として長期に家を空ける心配はあったが、夫が協力的で、家族をまとめ、資料探しにも手を貸した。この一家の姿から、西欧社会における人道的奉仕の精神が見受けられる。
本格的な活動を始める彼女の仕事振りは、幾つかのエピソードの積み重ねから成っている。移民船で連れてこられた児童は、さまざまな人生の苦境に立ち向い、一個人として成長しオーストラリア国民となっている。その孤児である男性の1人は、最初の挨拶での握手を拒み、敵意をあらわにする。その彼はマーガレットを信じることができなかったが、2人の交流が物語の縦の糸となる。
マーガレットの尽力で弟から手紙を受け取った女性は弟との再会を果たす。孤児である彼女は、母親も死んだと聞かされていたが、その生存がマーガレットの調査で明らかになる。しかし、姉弟へのこの朗報は、既に母親が一週間前に亡くなったことで、マーガレットの徒労に終わる。物語はオーストラリアのパースで展開され、彼女のもとには何千もの孤児たちからの手紙が届き、いかその数が多いかを物語っている。
この移民の目的は、英国の植民地政策の一端で、その窓口は慈善団体であった。「レディバード・レディバード」で父ケン・ローチ監督が指摘したように「ゆりかごから墓場まで」の高度に発展した英国の福祉政策の暗部を、原作者、マーガレット・ハンフリーズが提起した。マーガレットを始め、主演のワトソン、監督も、原作を読むまではこの事実を全く知らなかったと語っている。ここに、社会全体に棄てられた児童に対する無関心が根底に潜んでいることは確かだ。児童たちは、両親の居ない子供、両親や片親が居ても事情があって育てられない子供たちで、多くが両親の名や存在を知らされず、天涯孤独の身として扱われた。それらの児童が養護施設に引き取られた。この移民の目的は、安手の労働力、オーストラリアでは戦後の人口増を狙ったもので、総て白人の子たちであった。
この移民問題は、オーストラリアでは日本が間接的に関わっていることを、岩波ホールのプログラムに記載されている。このことは日本では全く知られていない事実であるが、原作で述べられている。戦時中、日本軍はシンガポールを占領、オーストラリアを空爆した。その時、オーストラリア国内ではアジアからの防護が叫ばれ、そのため、大英帝国の良き血の備蓄として白人の入植が叫ばれ、英国からの児童移民が利用された。
この人道に反する児童移民政策、この映画化において監督、脚本家は暴露を目的としたキャンペーン作品とせず、人が誰もが持つ自己確認の感情を前面に押し出す方針を採った。平和な時に、両親に育てられ、社会人となれば、この感情の必要性は希薄である。しかし、孤児となった子供にとり「自分は誰だろう」と問うことは極く自然な感情であり、それが、国家政策として踏みにじられれば、もはや犯罪である。日本でも我々が目にする好例が、中国残留孤児問題の悲劇であろう。
この政策を押し進めたのが専門機関で、そこから外国へと送られ、イギリス国教会、カトリック教会などが手を貸し、その主要な役割を慈善団体が請負い、国家、教会、キリスト教団体の共同プレーであることが判明している。
本作の製作意図は、児童移民について語らねばならぬとするジム・ローチ監督の社会的不公正に対する静かなる怒りが最大のモチベーションである。しかし、単なる子供たちの悲劇ではなく、成人した被害者を犠牲者として見ず、同情を拒否し、彼らの生きるその意思を伝えることにある。ここが、同監督が作品をキャンペーン映画にはしないと心に決めた理由であろう。個々の人間の不幸な生い立ちを、マーガレットという普通の一婦人の視線から説いたところに、人間性への尊重が隠されている。この象徴が、握手を拒否した男性との距離が次第に短くなる描き方で、脚本に一工夫がある。
ケン、ジム・ローチ監督親子の手法は極めて似ており、ジムの場合はこれが第1作目で、今後、どのような方向を辿るかは未知であるが、社会的不公正への怒りと社会的弱者に対する暖かさがあり、そこから生まれる連帯感は見る者の心を揺さぶる。
映画とは、知らないことを知らしめ、更に、映画により人間の限られた経験以上のものを学ばせる効用があり、「オレンジと太陽」は映画の特性を体現化している。
この児童移民に対し、2009年と2010年に、英、オーストラリア政府は、首相による議会での正式謝罪を表明した。我が日本では戦争中の朝鮮人強制連行に対する謝罪が未だ成されていない。国民として考えねばならぬ課題と筆者は考える。
原作者、マーガレット・ハンフリーズは、夫と共に児童移民に対処するための児童難民トラストを立ち上げ、現在、アドバイスやリサーチのサービスを行っている。
4月14日から岩波ホールにて上映中
(文中敬称略)
《了》
映像新聞2012年4月16日号より転載
中川洋吉・映画評論家
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