カミュの遺稿「最初の人間」
未完の自伝的小説を映画化
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フランスの作家、アルベール・カミュ(1913~1960)の遺稿「最初の人間」が映画化された。監督はイタリアのジャンニ・アメリオ、主演はフランスのジャック・ガンブラン、製作はフランス・イタリア・アルジェリアの合作である。
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「最初の人間」(c) Claudio Iannone
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物語のキーワードは旧フランス植民地、アルジェリアである。カミュ作品の主人公はアルジェリア生まれのフランス人であり、この二つの祖国を持つ人間の葛藤が主たるテーマといえよう。
アルジェリアとは地中海のチュニジアとモロッコに挟まれ、サハラ砂漠まで延びたアラブ世界のイスラム国家である。人口3700万、面積2382平方キロメートルの広大な面積を誇っている。
同国の地中海に面した地方は温暖な気候で農業に適し、広大なサハラ砂漠には豊富な石油、天然ガスなどの資源が埋蔵される豊かな国家である。フランスはそこに目を付け、147年間植民地支配を続けた。白人とアルジェリア人との間の人種差別、国内産業を育てない収奪支配、教育面での文盲政策、アルジェリア戦争末期にはフランス軍による殺人、拷問の横行がまかり通っていた。職を求め現地人は、フランスに渡り、いわゆる移民労働者となり、今や3世、4世の世代となっている。現在でも人種差別問題は後を絶たず、パリ郊外の暴動は失業率の高い移民労働者若年世代を直撃し、社会問題化している。このように、移民問題でフランスは植民地支配のツケを払わざるを得ない状況だ。
フランスは、アルジェリアを1865年に植民地化し、続々と入植者(コロン)を送り込み、統治支配した。コロンたちは特権階級を形成し、肥沃な畑は麦作から、フランス人のための葡萄畑へと転換され、フランスは、現地人の犠牲の上に、収奪型の植民地経営を続けた。フランス統治に反対し、独立を目指す民族解放戦線(FLN)が全土で一斉蜂起し、アルジェリア戦争(1954~1962)が勃発した。
最終的にはアルジェリアのFLNが勝利し、フランスは植民地経営から手を引いた経緯がある。アルジェリア側に百万人、フランス側は数万人の死者と、被植民側に多大な損害を与え、百万人のコロンはフランスへ戻った。
彼は1960年にパリで自動車事故のため46歳の若さで亡くなったが、1953年には43歳でノーベル文学賞を受賞と、作家としては既に盛名を馳せ、「最初の人間」は、事故の現場に落ちていた黒革の鞄の中から出てきた未完の自伝的小説である。遺族たちは、アルジェリア戦争中であり、彼の唱えた非暴力の主張が、当時の思潮から離れていたため出版に反対した。その後、1994年に出版され、大ベストセラーとなった。
板挟みの立場
何度もフランス、アルジェリア間を往復した彼は、映画「最初の人間」の冒頭、アルジェ空港に降り立つところから始まる。彼は、母を数年振りに訪れるためであった。時代は1957年、独立を望むアルジェリア国民と、自らの権益や地位を手放そうとしないフランス人との間の紛争の真只中であった。既に知名人となった彼を独立派の学生が出迎え、大学での討論会への参加を促した。討論会では、独立派とフランス領アルジェリアを唱える保守派の学生との間で怒号と喝采が飛び交った。当時の彼はリベラル派と見なされ、討論会のシーンでは、彼は「歴史を作る側ではなく、歴史を生きる側に身を置くことが作家の義務」とし、アルジェリア人とフランス人との共存の可能性を戦争の解決策と説いた。だが、アルジェリア独立の視点はなかった。彼の共存構想は、極右が指導する軍やコロンから敵視され、真剣に自己のアイデンティティを考えずにはいられなかったことは容易に想像できる。彼の主張は人道主義に基く理想論であるが、コロンの撤退により数年後に破綻する。
彼は父を早くに亡くし、母親思いの彼の心配の種はアルジェに残した彼女であった。折を見付けて故郷に戻った。この母の存在がストーリーをより深めている。
作中、アルジェ滞在中の彼は幼い頃に思いを馳せたり、旧友のアルジェリア人に死刑囚の息子の釈放を嘆願されるが、彼の努力もむなしく、処刑される事態が起り、彼は敵対する両者の間で苦悩を深め、同国に対する親近感と、フランス人としての疎外感を常に感じていた。この二面性が「最初の人間」の重要な背景となっている。
カミュ自身、被植民者アルジェリア人の苦しみを少年時代からずっと見ており、心情的には、アルジェリア・シンパであり、この点は異論はない。
コロンの農園管理に携わる父は一使用人であり、第一次世界大戦に召集され、彼が1歳の時に亡くなり、彼はアルジェで母と叔父と、そして、厳格な祖母との家庭に育った。決して裕福ではなく、彼自身も家庭の事情を理解し、進学を諦めた。しかし、成績優秀な彼の才能を惜しんだ先生の、家族に対する熱心な説得で上級学校進学を決意した。その後、アルジェリア大学で学び、地元の新聞社に勤務し、記者としてフランスの植民地体制を告発し、リベラル反体制知識人としての地歩を固めた。その後、30歳の時からパリにうつり、「ペスト」(47)により作家の地位を不動のものとした。このように、彼自身、生まれも育ちもアルジェだが、成功をもたらせたのはフランスであった。
カミュは、先述のように、フランスとアルジェリアの共存を掲げるリベラル派であった。しかし、時代は対決ムードにあり、フランス軍部やコロンたちは、国粋主義に走り、アルジェリア人は独立を強く求め、妥協策の出る幕はなかった。
アルジェの討論会で、カミュは「私は正義を信じる。しかし、正義より前に私の母を守るだろう」と率直な心情を吐露している。この点が、アルジェリア解放戦線(FLN)支持へ踏み込めなかった最大の理由であり、論理の矛盾でもある。そこには、人間誰でも抱く悩みを終生の課題として内に抱えるカミュの姿が浮かび上る。
147年間続いたアルジェリアの植民地化は、フランス自身の問題でもある。それに巻き込まれた良心的知識人がカミュといえる。彼の苦悩は母親の存在と併せ、もし、早逝しなければ一生続いたのではなかろうか。
人間の良心について語る重要な作品が「最初の人間」である。
(文中敬称略)
《了》
2012年12月17日号掲載
中川洋吉・映画評論家
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