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「ある精肉店のはなし」
若手女性監督の第2作
「命」を食べる現実と向き合う
 

纐纈あや監督

 「祝(ほうり)の島」に続く、若手女性監督纐纈(はなぶさ)あやの第2弾「ある精肉店のはなし」が、11月29日(火)より東京・ポレポレ東中野で公開中だ。前作「祝の島」は山口県上関原発反対運動を、今作「ある精肉店のはなし」も、大阪・貝塚市の肉屋一家に密着したドキュメンタリーである。
屠畜そのものを取上げた作品は少ない。人間は日常的に肉を食し、今や、肉なしの食生活はあり得ない。その肉が来る経緯を人は触れたがらない現実がある。動物の命と引き換えの我々の命について目を逸らすことは、生きものの命を奪うやましさ、生きものへの憐れみから発せられ、そのことが因でタブー視されて来た。主食に代るほど、大量の肉を消費する西欧諸国では、「牛は人に食べられることが一番の幸せ」とする思いが一般的である。日本の場合、四足は口にしない仏教の慈悲の心が多くの人にあり、積極的に肉食を避ける傾向があったことは認めねばならない。勿論、親鸞上人が肉食、妻帯を戒(いさめ)から解き放ったことが、肉食への大きな契機となったことも頭に入れねばならない。西欧と違い、日本では、生きるものに対する慈しみの気持ちがあり、何か、申し訳なさが付きまとっている。「ある精肉店のはなし」は、その申し訳なさは申し訳なさとしつつ、肉食について、その実体を明かそうとしている。

屠畜と戸惑い

肉屋さん一家
(c)『ある精肉店のはなし』より

 肉食のタブー化は、同和問題と表裏をなすものである。江戸時代に、時の権力者は士農工商の下にもう一つの身分を作ったとされる。低い身分の者たちは、生きるために、誰もが嫌がる屠畜しか生活手段がなく、彼らは一つの集落を創り、屠畜を生業にせざるを得なかったというのが一般の考え方のようだ。そして、今作では、大阪・貝塚市の同和部落の肉屋一家に密着し、彼らの日常生活振りを追い、屠殺の実体を写し取っている。そして、屠畜がどのように行われるかの過程を丁寧に追うことにより、我々が口にする肉の経路を明らかにし、一つの社会的行為としての屠畜が描かれている。


地域性


 被差別部落で生きる一家
舞台の大阪の貝塚市は同和部落である。東京に住む人間には同和問題が目に見えにくいが、関西ではある特定の地名を挙げると「あすこは部落」と分かり、差別問題が起きている現状がある。ましてや、肉屋であれば部落であることがわかると、作中の発言でも見てとれる。
貝塚市で7代に亘り肉屋を営む家族が、このドキュメンタリーの主人公たちである。
彼らは、採算率の高い子牛からの飼育・屠畜を続け、現在に至っている。彼らの自宅には牛舎があり、すぐ近くに屠場があり、牛舎から屠場まで、徒歩で牛を連れて行く。そこは、近代的な屠場ではなく、それは102年の歴史を持つが、取り壊しの運命にある。


冒頭の衝撃



 仕事としての屠畜の実体
作品の中で最大のインパクトを与えるシーンがある。これで、観る者は、頭をガーンと一撃されるような衝撃を受ける。牛舎から住宅街を通り、屠場へ一頭の大きな食肉牛が引かれ、屠場に入る。牛は少しばかり動き回るが、屠畜者の男の手綱さばきで大人しくさせられ、先に杭のついたハンマーでの一撃で絶命する。近代的な電気的屠畜ではなく、人の手による処分だ。
このシーンの強烈さ、思わず声を上げるほどだ。このような屠殺、つくづく残酷な行為である。この残酷さにより、人間は、生きものの命を頂いている。生きることは非道く残酷との思いが強くのしかかる。生物学的に言えば、食物連鎖ということであろうか。この残酷さがタブー視化され、賤民と言われる人の手に押し付けられたのであった。


生きるということ



 人間、生きるためには、多くの命を頂戴せねばならない。可哀相、可哀相と感傷にふけっていてはいられない。肉屋一家は、黙々と仕事をこなす。彼らは、生き生きと自らの生業に励んでいる。兄弟とそのお嫁さんが一家の働き手である。一頭の巨大な食肉牛を手際よくナイフでさばく、見事な職人芸である。それぞれの部位が仕分けられ、おおきなところは冷蔵庫に収まる。一家の連携プレー、家族ならではの手際良さが光る。解体され、残った皮の大きな部分は和太鼓に張られる。

祭りの太鼓


さばかれた大きな皮は、幾度となく手を施され、祭の太鼓として張られる。張られた皮から、骨太で見事な音が出る。食肉以外の副次的作業であるが、これも肉屋のもう一つの技芸である。彼らは太鼓の専門家でもある。和太鼓が屠畜と密接な関係にあることが初めて分かる。そして、部落は山車を仕立て、だんじり祭に繰り出す。年中無休のような働き詰めの日常の中の祭、気分が昂り、皆が燃える。誰にも訪れる束の間の輝き、見ていて楽しいシーンだ。


家族



差別される人々の拠りどころは家族であろう。その家族の中核を成すのが仕事である。7代も続く肉屋、今や彼らの誇りであり、作中の家族たちは元気が良い。大家族の賑やかな食事風景、盆踊りの仮装をめぐるオバさんたちのウキウキした表情、屠場で見せる仕事人の顔、そして、閉鎖に伴う動物供養と家族全体で見せる表情、そこには皆で生きる姿勢が濃く出ている。かつての差別に苦しんだ亡父の思い出話、今も存在するいわれなき差別も、彼らには跳ね返す力がある。ことさら、差別糾弾の発言は見られない。当然のものとし、静かに立ち向かう、しなやかな生き方である。


屠畜への敬意



 今作には、今まで触れたがられなかった屠畜に対し敬意が示され、それが、職業人、そして、職人の域に達した技へ向けられる。そこに「ある精肉店のはなし」は作品としての清々しさがある。扱う素材に対し、生々しさがない。それは、肉屋一家の生き方、そして、撮り手の抑制から来ている。屠畜という命を奪う行為に対し、肉屋も、決して平穏な気持ちではない。ラスト、屠場閉鎖前の最後の屠殺、いつものように、住宅街を通って屠場入り、665キロある大人しい牛が可哀想に見える。
屠殺する側も、大人しい牛の命を奪うことに憐みを感じる一コマである。これが人間の真情であろう。残酷な行為であるが、受け入れねばならぬ現実もある。この現実をきっちり受け止め、言い訳の台詞のようだが、感謝をもって命を頂くより他ない。しかし、屠畜を「美しい」とする考えには、正直躊躇せざるを得ない。
今作は相当厳しい予算での製作であることは容易に想像できるが、技術パートの撮影(大久保千津奈)、録音(増田岳彦)は立派な出来である。
今作の基は、作品のプロデューサーで写真家でもある、本橋成一の写真集「屠場〈とば〉」(2011、平凡社、2940円)である。




(文中敬称略)

《了》




映像新聞2013年12月2日掲載号より転載


中川洋吉・映画評論家