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伊藤俊也監督作品「始まりも終りもない」
“人間の存在論”に迫る
実験的な手法で思いを凝縮
 

 伊藤俊也監督の新作「始まりも終りもない」が12月14日から渋谷シアター・イメージフォーラムで公開される。ベテランである同監督の新作で、「ロストクライム−閃光−」(10)以来のメガホンだ。
「始まりも終りもない」は格調の高い、スタイリッシュな作品で、伊藤監督のアヴァンギャルドな一面が強く押し出されている。


試写室で

伊藤俊也監督 (c)2013 ITO PLANET CO.,LTD

 プレス試写の際、伊藤監督の挨拶があった。先ずは来場の礼を述べ、「良くわかった方々を選び案内状をお送りしました」とプレスを持ち上げ、この辺り、年季を積んだ実力監督らしく、中々うまい。次に、「見たら、そのままにしないで、何か形にして頂きたい」と要望。筆者も、何か形にせねばとの思いで筆を取った。



伊藤・田中タンデム

沼へ入る背広姿の田中泯
(c)2013 ITO PLANET CO.,LTD

 作り手の強い個性が光る伊藤作品だが、最新作はより実験的な手法を用い、作り手自身の思いを凝縮させている。舞踏家田中泯とのタンデムで、台詞のない身体表現で95分もたせ、全篇に緊張感がみなぎっている。そして、田中泯の独演ともいえる身体表現が、視覚に訴える台詞となっている。
作品紹介で、監督は「人間は生まれて来て死ぬ。しかし、誕生が始まり、死で終りであろうか。人間は、誕生も死も認知できない。人間はこの世に〈投げ出され、そこにいる〉のではないだろうか。〈投げ出され、そこに在る〉だけではないだろうか。〈始まりも終りもない〉のだ」と作品の骨子について語っている。


火水木


 自然界の火水木土がそれぞれに意味を持っている。田中泯は自身の身体を駆使し、火なり、水などに立ち向う人間を演じている。
冒頭とラストは大きな水泡の中の人間が写し出される。これは、人は水から生まれ、水に帰る、の意であろう。
序章は、水中の男、滝壺へ浮き上がる。人間の誕生だ。そして、水の流れに身を任す。このつながりにより、人間の誕生がすんなりと伝わる。
次いで、赤々と炎に包まれる民家、平穏な水の流れが一変し、牙をむ?き、火炎へと転換する。まるで歌舞伎の屋台骨崩しのようだ。総てを破壊し、焼き尽くす様であり、戦争をイメージさせる。そして、主演の田中泯は今年68歳であり、彼の誕生日と、十万人の死者を出した東京大空襲(1945・3・10)とが重なる。その焦土の象徴が焼け残った1本の木である。それを見守る男たちはギリシャ悲劇のコロス(合唱隊)である。

誕生



 場面が続き、古民家の中で、臨月を迎えた女(劇中、唯一の女性が石原淋)が苦しみでのた打ち回る。それを離れて見守る男たちがコロスであり、この場でも生の誕生とその苦しみの瞬間の目撃者となる。1人の女の苦しむ様を遠巻きに見つめる男たちの突き放した態度、不気味さが募る。生という意味の孤独さが迫る。

生きること 舞踏家の身体表現だけで描く



 圧巻は、新宿西口のガード下を全裸で匍匐(ほふく)行進のように、手だけを使い前へ進む田中泯の男。雑踏の脇を必死の形相の男、脇を走り過ぎる車、異様な光景を目にする通行人たち。危険極まりない撮影だ。見ている方がハラハラし通しだ。これが生きることかとの感を抱かせる。更に、ダメ押しで、今までの裸体表現から背広のサラリーマン姿に変り、朝の新宿駅のラッシュの人の流れに逆らい階段を逆方向へ匍匐(ほふく)前進する必死の形相の田中泯が写し出される。朝のラッシュ時に下から登る彼は先を急ぐ利用客にとり、はなはだ迷惑な存在であり、枝葉末節なことながら、一体、どのように撮影したのかと感心してしまう。恐らく、形だけの許可を取ってのゲリラ撮影と思えるが、撮影監督鈴木達夫と田中泯とのコンビネーションプレーは見事だ。 生き難さをここまで押すとは、力技(ちからわざ)としか言いようがない。


土の意味



 今作は、生きることのエピソードを紡ぎ合わせ構成されている。土に当たるエピソードは泥沼である。ゾンビを思わすコロスの男たち、泥沼の底に足を取られ動きが取れない。泥沼に足を取られ、身動き出来ぬ状況での人間が描かれる。そこへ、田中泯の主人公が、新宿駅と同様に背広姿で現われ、泥沼の中に身を浸す。ここで、背広姿は管理される人間たちと想像でき、この種の人間の消滅を意味するとも受け取れる。生きること、死ぬことの一連のエピソード、どれ一つとっても、過激なのだ。極限まで人間を追い込み、そこか見えるものが何であるかを伊藤監督は問いかけているのだろうか。
ラストは再び、水泡の中の人間が登場する。
水から生まれ、水へ戻るとは、伊藤監督は意識したに違いないと考えられるが、そこには輪廻の思想がある。終わりがなく、再び生へとつながる発想であり、生への強い希求が「始まりも終りもなく」の強い問い掛けと考えられる。


名人、鈴木達夫


 撮影監督の鈴木達夫は、今年78歳のベテランで、彼は鋭角的映像表現で多くの観客、そして、監督を魅了している。鈴木達夫のカメラと聞けば、きっと面白い映像が見られると思わす名人芸の持主だ。彼は、多くの逸材を輩出した、今は無き、岩波映画製作所の出身である。デビュー作「水に書かれた物語」(65)(吉田喜重監督)のモノクロのハイキートーン、別次元の世界に誘われるようだった。ATGの傑作「とべない沈黙」(66)(黒木和雄監督)は、映像が主役とも思え、特に印象深い。彼のハイキートーンと並び、画面の一隅に重要な対象を写し込む、世間では「ハジッコカメラマン」と盛名を馳せた技法は有名だ。今作はカラーであるが、鈴木撮影監督の手に掛かると、見終わった後、モノクロの印象が残る。


田中泯のエピソード



 大分古いことであるが、1978年にパリの装飾博物館で「間(ま)」展が開催された。日本芸術の底流たる「間」をテーマとし、建築家磯崎新の主導により、演出家鈴木忠志率いる「早稲田小劇場」、舞踏「田中泯」などが披露された。田中泯は、全裸のパフォーマンスで陰部の先に包帯を巻くだけの姿であった。これを見て鈴木忠志が「田中さんは、衣裳が包帯だけなんていいなあ」とからかっていたのが思い出される。この包帯、田中泯のお上に対するおちょくりのような気が、今になってしてくる。


 



(文中敬称略)

《了》




12月14日(土)よりシアター・イメージフォーラム他全国順次ロードショー


中川洋吉・映画評論家