映画「マルタのことづけ」
生きることの意味を問う
眼を見張る若手女性監督の才気 |
|
生きることの意味を問う新作「マルタのことづけ」(13)(クラウディア・サント=リュス監督、メキシコ)が公開中である。
若い女性監督作品で、彼女の才気には目を見張るものがある。
|
「マルタのことづけ」マルタ
|
誰もが避けて通れない死について、「マルタのことづけ」は確実に一つの方向性を打ち出している。死を忌み嫌う風潮に対し、学問的には既に死の意味を問う、"死生学"が確立している。それは、いかに、死と向き合うかを模索する研究である。誰もが余命を告知されれば、パニック状態に陥るのは普通であり、この状況の受け止め方の一つを「マルタのことづけ」が見せてくれる。
|
「マルタのことづけ」家族の海水浴
|
死とは、逆に考えれば、いかに生きるかの問題であり、現実的に捉えねばならない。
物語は、太陽の国、メキシコが舞台。メキシコといえば、マフィアの暗躍、政治の腐敗、アメリカへの移民など、多くの問題がある。しかし、太陽の国でもあり、物語の主人公たちは、その明るさの元で生きている。この明るさこそ、「マルタのことづけ」を輝かせている
|
「マルタのことづけ」一家の食卓
|
主人公の母親マルタはその太陽の頂点に立つ4人の子持ちであり、父親について作品は何も触れていない。重要なのは、マルタの存在であり、意図的に排除されている。彼女は不治の病におかされ、余命2ヵ月と告知され、既に、数年に亘る闘病生活を送っている。主人公の1人である若い女性、クラウディはサント=リュス監督の分身であり、実際の出会いと別れを描く実話に基づいている。監督自身、両親の離婚により、母親との暮しに息苦しさを感じ、17歳の時に家を離れた。大学卒業後に、作品のモデルとなったマルタと4人の子供たちとの生活が本作の骨子となっている。
死の一歩手前のマルタと残される家族のハナシはシンキ臭いのが当然だが、登場人物がすこぶる明るい。いわゆるラテン気質で、外出する人間に、ついでにお使いを頼んだり、夏の間、友人に貸したマンションの家具の位置をすっかり変え、家主を呆れさせたりは日常茶飯事だが、見ず知らずの旅行者に声を掛けるのもラテン気質を持つ人々なのだ。個人的な話であるが、友人が中南米の片田舎を貧乏旅行し、ある貧しい村に到着し、宿を探したら、そのような施設は一切ない辺鄙な場所で、村民が宿を提供し、夕食を振舞ってくれた体験談を耳にしたことがある。村民は貧しいが、精いっぱいもてなしたそうだ。このように、人の生活の中を出たり入ったり、与えたり、貰ったりのラテン的生き方の原型が「マルタのことづけ」にはあり、そこが、何とも人情味あふれ、おかしみに満ちている。
不治の病に侵された主人公のマルタは、ある孤独な女性、クラウディアと病院で知り合う。その若い女性を最初に車に乗せ、家に連れ帰り夕食に招待する。決して、お客さんのための張り込んだものではなく、普段のままの夕食だ。クラウディアは、車で送って貰うだけと思っていたら、突然の招待、考えもしなかっただけに最初は戸惑う。彼女は、スーパーの実演販売員で身寄りもない独身女性、世間とも没交渉に生きてきた。丁度、監督のサント=リュス自身の若き日の姿と重なり合う。
呼ばれた家は4人の子供ばかりで、騒々しい食卓、長女は既に独立、次女はフリーター、三女は恋とおしゃれしか頭にない女の子、そして、末っ子は、お姉さま方にいたぶられ通しで、彼の役目は洗濯係、父親の存在はなく、母親と子供たちが騒々しく生きている様子を目の当たりにした孤独に生きてきたクラウディアにとり、見たことのない光景であった。彼女は子供の学校への送り迎えや、マルタの病院の付き添いと、一家の頼れる一員となる。愛を知ることがなかったクラウディアにとり、全く予期しなかった人生が突然現れ、当惑しながらも、一家に身を寄せ、マルタの家で家族の一員として寝食を共にする。クラウディアも自分が必要とされることを実感し、他人(ひと)に必要とされることに生きがいを感じ始める。偶然が引き寄せる人間同士のプリミティブな感情に訴えるご縁の世界である。
人との連帯感、信頼感を強調
マルタは残された人生で5つのことを実行することを決める
1、 家に帰って、子供たちに料理を作る(註:特にソーセージを多めに)
2、 家族みんなで食卓を囲んで食事をする
3、 クラウディアを家族の一員とする
4、 休暇を取り家族全員で海へ行く
5、 子供たちに手紙を書く
何でもない平明なことづけだ。別に、財産、相続、教育について述べている訳ではない。日常をきちんとこなす、しかも、家族と一緒にというのが〈マルタがやっておきたいこと〉である。ここに、生きている間は家族と共に精一杯、互いに顔を会わせながら過ごす意味の深さがある。当たり前が当たり前でなくなることこそ、人生を生き難くしているのだ。
死の直前の母親のメッセージを扱った他の秀作がある。カナダ・スペイン合作の「死ぬまでにしたい10の事」(03)(イザベル・コイシュ監督)である。今作では、ことづけが5つから10に増えている。主演はカナダの女優としても、そして、最近は「物語る私たち」の監督としても著しい活躍をしているサラ・ポーリーである。余命2ヵ月を告知された23歳の若い母親は残された子供たちと共に過ごす間に10のことを決意する。「マルタのことづけ」に加えて、コイシュ監督作品はもっと個人のアクティヴさに触れており、そこが興味深い。例えば「好きなだけお酒と煙草を楽しむ」、「夫以外の人と付き合う」、「誰かが自分に恋するように誘惑する」など、はなはだ人間臭く、本音が見えるところが面白い。この2作とも、いかに死を迎えるかについての考察であり、同じテーマを扱っている。しかし、「マルタのことづけ」は、ラテン気質丸出しの明るさと人と人との絆が強く押し出されている。例えば、クラウディアを家族の一員として迎え入れるところは、人の絆が家族以外の人間とも分かち合えることを示し、作中の骨太な構成要素となっている。コイシュ監督作品は、監督自身がスペイン人であり、「マルタのことづけ」と共通しているが、もっと人間本来の欲望に踏み込み、その点が見る者を惹きつける。
「マルタのことづけ」には末っ子の幼い少年しか男性は登場しない。ここに本作の特質がある。即ち、女性だけのもつ連帯感、信頼感を強調し、作品自体をより味わい深くしている。そこにある、母親の分身たる子供たちとの必然的な母子(おやこ)のつながりと離れ難さに感動させられる。
避け難い死に対し、いかに向き合うかの問いに対する回答が「マルタのことづけ」で示されている。それは、何でもない、普段のことを大切にする姿勢である。
一見をお薦めしたい作品だ。
(文中敬称略)
《了》
10月18日(土)シネスイッチ銀座ほか全国順次ロードショー中
映像新聞2014年10月27日掲載号より転載
中川洋吉・映画評論家
|