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「ジミー、野を駆ける伝説」
ケン・ローチ監督による待望の新作
自由を訴えた活動家の生き様

 昨年のカンヌ映画祭コンペ部門に出品された、英国のケン・ローチ監督の待望の新作「ジミー、野を駆ける伝説」(以下「ジミー」、原題"JIMMY'S HALL")が公開されている。我が国で根強い人気を誇る同監督、ほとんどの作品が公開されている。昨今、我が国では、退潮著しいヨーロッパ作品の中にあり、1人気を吐いている感がある。彼の作品はアート系館公開が中心であり、残念ながら小規模の展開となっている。

舞台背景

ジミー
(c)Sixteen Jimmy Limited, Why Not Productions, Wild Bunch, Element Pictures, France 2 Cinema,Channel Four Television Corporation, the British Film Institute and Bord Scannan na heireann/the Irish Film Board 2014

  アイルランドの名もなき英雄
時代は1932年で、舞台はアイルランドの片田舎、人家もまばらな地域である。その地に、1人の青年ジミー・グラルトンが帰郷するところから物語は始まる。一軒の農家に青年が入り、彼を待ちわびた老いた母が彼を迎える。彼女にとり、最愛の息子の帰郷であり、息子と抱き合い幸せを噛みしめる。良いシーンである。


ジミー・グラルトン

ジミーと別れた恋人
(c)Sixteen Jimmy Limited, Why Not Productions, Wild Bunch, Element Pictures, France 2 Cinema,Channel Four Television Corporation, the British Film Institute and Bord Scannan na heireann/the Irish Film Board 2014

 主人公ジミー、グラルトン(バリー・ウォード)は、反体制活動家であるが、詳しい資料は失われ、いわば「名もなき英雄」となっている。この物語は失われた部分の創作で埋められている。
彼は1886年にアイルランドのリートナム州生れで、この地「ジミー」のロケが行われた。実際のリートナムは荒涼とし、その貧しさが見る者に伝わる。この貧しさを逃れて大量の人々がアメリカへ移住したことは良く知られている。
アメリカでは、現在もアイルランド系移民は多く、その中で最大のファミリーがケネディ家である。移民の歴史は古く、1840年代のじゃが芋飢饉に端を発し、当時100万人がアメリカへ渡った。正に、民族の大移動である。この様に、アイルランドでは、アメリカへ移住することはごく普通になっていたようで、ジミーも、既に14歳の時に学校を離れ、店員、バーテンダー、そして、英軍への入隊、リバプールの港湾、ウェールズで炭鉱労働を経て、29歳で移住先のアメリカで市民権を取得。その間、1919年には新たに結成されたアメリカ共産党に入党、その後、彼は2度帰国する。最初は1921年で、土地を追われた農民のために地主層と対立、軍隊による実力行使でアメリカへ強制送還される。
彼は、種々の労働に就き、最終的にアメリカに定住し、従って、アイルランドでの生活は少年時代だけであるが、進取の気概を持つ、彼は弱者救済の政治運動に身を投じ、また、人々と共に楽しむオープンな人間として描かれている。


ジミーの帰国

村の支配層
(c)Sixteen Jimmy Limited, Why Not Productions, Wild Bunch, Element Pictures, France 2 Cinema,Channel Four Television Corporation, the British Film Institute and Bord Scannan na heireann/the Irish Film Board 2014

 ジミーは10年ぶりの1932年に母親のために帰国するが、地元の人々、特に若い世代は、この有能な活動家を放ってはおかない。当時のアイルランドの社会状況は、多くの貧困層の上に一握りの富裕層とカトリック教会が君臨し、人々の日常を仕切り、自由とは程遠かった。当然ながら、田舎の支配層は彼の帰国を快く思わない。彼らにとりジミーは煽動家、不穏分子であった。



心を解き放つダンス・歌

地元民
(c)Sixteen Jimmy Limited, Why Not Productions, Wild Bunch, Element Pictures, France 2 Cinema,Channel Four Television Corporation, the British Film Institute and Bord Scannan na heireann/the Irish Film Board 2014

 ジミーを頼りにする地元民たちは、10年前の彼の帰国時に建てられ、彼を目の仇にする支配層の放火により焼失したコミュニティ・ホールの再建を訴える。
母親の面倒を見て、畑仕事をしながら平穏に暮らす積りのジミーは、10年前の強制送還のことが頭をよぎり、当然、逡巡するが、逆に再開へと情熱を傾ける。ホールは、貧しい人にとり心の拠り処であり、日頃の鬱積した気分を晴らす場でもあった。ジミーが帰国時に携えた蓄音機(当時としては大変な貴重品)から音楽が流れ、人々はダンスに興じるのであった。ダンスは、アイリッシュダンスのオリジナルな形であり、音楽は後にアメリカでカントリー・ミュージックに形を変えた。ホールは、他に、議論、芸術やスポーツを楽しむ場でもあった。本作で写し出されるダンス、人々の楽しそうな表情を通して、人々の心を解きほぐす力がダンスに見て取れる。ここに、ローチ監督の大きな狙いである、自由な精神の具現化が顔を出す。この辺り、貧しい者たちの結び付きに最大の目配りをするローチズムが溢れ出す。

政治的背景

拘束されるジミー
(c)Sixteen Jimmy Limited, Why Not Productions, Wild Bunch, Element Pictures, France 2 Cinema,Channel Four Television Corporation, the British Film Institute and Bord Scannan na heireann/the Irish Film Board 2014

 1921年のジミーの最初の帰国時、アイルランドは英国からの独立を巡り激動の時代であった。当時の未解決の問題は、土地の所有権、労働者の権利、そして、一般的な階級の問題であった。彼は、当時の支配者、教会、地主と対立し困窮するワーキングクラスや農民の立場に立ち、彼らを敵に廻し、ホール建設を巡り、土地所有者と対立した。彼の主張は一貫して「土地の無い者に土地を」であり、支配層にとり邪魔な存在であり、ジミーは虎の尾を踏み、21年と33年の2度にわたる強制送還劇に遭遇する。しかし、21年は約1年、32年は約1年半と、短い滞在であった。
社会の不公正に異を唱え、異議申し立てをするジミーの本拠地がホールであり、そこは、貧しい人々の希望の場でもあった。当時の政治的情況は、アイルランド問題の専門家以外には分かりにくいが、保守派が支配し、革新派は、一応、変革のメッセージを出しながら、教会との協力関係を継続する旧態依然の状態で、その革新派すら分裂し、左派は沈黙を強いられた。ジミーの立場も左派であり、裁判抜きで国外追放の対象とされた。アメリカに戻った彼は2度とアイルランドの地を踏むことなく、1945年にニューヨーク、ブロンクスで59歳の生涯を閉じた。


ローチ監督の姿勢

 ケン・ローチ監督の主張は明確な論理性を持ち、そこが多くの人々を引き付ける。彼は終始、働く者の立場に立ち、その姿勢はぶれない。ワーキングクラスに軸足を置き、向こう側へ行かないところに彼の精神の強固さがうかがえる。
このことは、両親がワーキングクラス出身であることからもうかがえる。大学はオックスフォードで、トップクラスのエリートである。その後、BBCテレビに入り、多くのドキュメンタリー作品を手懸けた。その間、映画製作も同時進行させた。彼は作品で強い政治性を打ち出し、良い意味で棒を呑んだような姿勢をとり、妥協を拒み続けた。彼の採り上げる人々は「ジミー」で見られるように、貧しく、ごく真っ当な庶民で、彼らの連帯感は見ていて快地良い。
彼が嫌うのは支配層であり、時として、左派間の分党主義者である。例えば、現在は一応沈静化しているが、アイルランド問題に登場するIRA(アイルランド共和軍)である。ジミーの帰国時、彼らは政権と取引したが、このことは作品で触れている。
ローチ作品は、本質的に、弱者の敗北で終わることが多いが、作品内容は暗くない。それは、常に希望を提示しているからである。その希望とは、ワーキングクラスの人々の結び付きと、善良さから生まれている。


愚直さ

 彼は軸足がぶれず、論理が明快である。この明快さは愚直であるが、それ故に、力強さが内に秘められている。この愚直さこそ、作家ケン・ローチの原点であり、彼の作品の魅力である。日本の若手映画監督が長い間置き忘れたものの1つに、力強さ、愚直さがある。この力強さを、日本の作り手は受け入れても良いのだが。


ローチ組

 ローチ監督は脚本のポール・ラヴァティと「カルラの歌」(96)で、製作のレベッカ・オブライエンとは「隠されたアジャンダ」(90)以来のトリオを組んで今日に至っている。ラヴァティのがっちりした脚本、そして、オヴライエンの製作資金集め、ローチ監督の演出と、実に巧く稼働している。貧乏プロのローチ組はかなり長い間、費用の安いスーパー16ミリフィルムで撮影し、35ミリに拡大する低予算撮影のエピソードは有名である。これは、ドキュメンタリー出身のローチ監督の特技であり、オヴライエンが低予算ながら製作を支えた。彼らの映画つくりを見るなら、脚本の優劣以外に、製作は頭を使わねばならぬことを教えてくれている。




(文中敬称略)

《了》


2015年1月17日(土)より、
新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国ロードショー

映像新聞 2015年1月19日号より転載


中川洋吉・映画評論家