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「奇跡のひと マリーとマルグリット」
3重苦少女の奇跡の成長を描く
感動を愚直に語る強い作品

 耳が聞こえず目も見えない野生児が、一修道女の献身的な努力により、人間らしく生きる物語「奇跡のひと マリーとマルグリット」(以下「奇跡のひと」)が6月初旬から公開される。聴障害、視障害、言語障害の3重苦の女性の物語としては、アメリカのヘレン・ケラー(1880‐1968)が良く知られている。「奇跡のひと」の主人公、マリー・ウルタン(1885‐1921)はフランスの古都ポワチエ生まれた。
この2人は比較されるが、ヘレン・ケラーは後天的な障害者で、サリバン先生を始めとする複数の人々から教育を受けている。フランスのマリー・ウルタンはヘレン・ケラーより5年遅い1885年生まれであり、先天的要因による3重苦である。ヘレン・ケラーには複数の教師が存在したが、本作「奇跡のひと」のマリーには修道女マルグリットが唯一の教育者であり、2人の境遇には大きな違いがある。

マリーの登場

「奇跡のひと マリーとマルグリット」
(C)2014 - Escazal Films / France 3 Cinema - Rhone-Alpes Cinema

  主人公の1人マリーの登場は衝撃的だ。田舎道を馬車が行く。手綱を持つ農夫と、縄で体を縛られた少女の2人組だ。何の変哲もない親子に見えるが、少女は言葉を発せず、父親に寄り添う。彼女こそ、3重苦のマリーである。行先は、聴障害のある少女たちを教育するラルネイ聖母学院である。父親はボロをまとった娘を、この修道院の附属施設である同院に預けに来たのであった。
到着したマリーは父親の隙を衝き、木の上に登ってしまう。多分、父親に置き去りにされることを感じ取ったのであろう。父親は院長に訪問趣旨を告げるが、同院は聴障害者施設であり、視障害者までは受け入れられぬと説明する。これまで多くの施設で断られたであろう父親は、「精神病院へ行けと言うのか」と憤慨し、木に登った娘を無理やり降ろし、馬車で帰路につく。マリーは、しつけと教育を受けておらず、着替えの習慣がなく、ボロをまとい、髪はとかさず、食事は手掴みといった案配である。彼女は根っからの野生児で、両親はホトホト困り果てている。


マルグリットの登場

「奇跡のひと 3重苦のマリー」
(C)2014 - Escazal Films / France 3 Cinema - Rhone-Alpes Cinema

 マリーの来院と院長の拒否の一部始終を目の当たりにした修道女が、マルグリットである。父娘の帰宅後、マルグリットはマリーのことが頭を離れず、マリーの教育係になることを院長に直訴する。彼女の熱意にほだされた院長も、渋々、了承する。ここで、彼女はマリーの教育係となるが、その動機は、神の啓示としか言いようがない。勇躍、マリーを迎えに両親宅を訪れるが、彼女は逃げ廻り、やっとの思いで連れ出す。別れ際、母親は一丁のナイフをマルグリットに託す。これは、マリーが肌身離さないナイフで、後の物語の大きな伏線となる。


戦いの教育

「奇跡のひと ふたり」
(C)2014 - Escazal Films / France 3 Cinema - Rhone-Alpes Cinema

 修道女の献身的な努力
2人の間は、マリーの障害のためコミュニケーションの手段がなく、先生役のマルグリットは大いに悩む。先天的障害児であるマリーを、どの様にして教育するかが「奇跡のひと」の大きな見ドコロとなる。
マルグリットはマリーの中に小さいながら何か特別な魂を見出したのだったが、教育は一筋縄ではなかった。野生児のマリーには教育の素地が全くなく、マルグリットにとり、何から始めるかが大きな問題であった。ものには名前があること、身だしなみを整えること、食べる時はナイフとフォークを使うことを教えるが、彼女はことごとく反抗する。風呂に入ることを嫌がり、新しい服に着替えさせようにも暴れ、手が付けられない。
4か月過ぎても、進歩の跡が見られず、さすがの忍耐強いマルグリットも限界を感じ始める。まるで、野生馬を飼い馴らす調教師のようで、まさに、戦いの毎日だ。マルグリット自身、肺疾患で、健康問題の心配があり、彼女は焦り気味だ。だが、少しずつ、彼女の努力が実を結び始め、今まで、頑なに拒んだ入浴やブラッシングにも慣れ、食事の時は、ナイフとフォークを使うようになる。しかし、物に名前があることを教えようとするが、これは困難極まる。
どのようにして3重苦の人間に教えるか、普通であればお手上げだが、マルグリットは繰り返し、繰り返し試みる。彼女はナイフを教えようと躍起となる。ここで、マリーの母親から託されたナイフが役に立つ。ナイフというもの自体、マリーは理解できるが、その名前を教えることとなると難しい。そして、8か月目に、マリーはナイフの名前を理解したのであった。最初の一語こそ苦労したが、それからは、単語、形容詞、抽象語、文章、文法を次々と理解し始めた。
「奇跡のひと」そのものだ。面会に来た両親には、手話で「愛している」と語りかけ、彼らに感激の涙を流させた。



奉仕の精神

「奇跡のひと マリーを連れ帰るマルグリット」
(C)2014 - Escazal Films / France 3 Cinema - Rhone-Alpes Cinema

 マリーとのコミュニケーションの会得には、不治の病に侵されたマルグリットの献身的努力があってこそである。自身の命を削り、使命感でひた走るマルグリットには、西欧社会独特の奉仕の精神が見られる。それも、限定的に述べるなら、カトリックの倫理観である。
実際、フランスで暮らすと、人を助ける無償の行為をしばしば目にする。この行為は、カトリック信者間だけでなく、総ての人々へ向けられている。友人が何故これほど尽してくれるのかと感じ入ってしまうことがある。宗教には様々な問題があることは承知しているが、社会全体としての、人を助ける気持ちが根付き、その一端が「奇跡のひと」に見られる。仏教社会の我が国でも人を慈しむ考えはあるが、それを行動に移す決定力が薄いと感じられる。

愚直な感動

「奇跡のひと 野生児マリー」
(C)2014 - Escazal Films / France 3 Cinema - Rhone-Alpes Cinema

 「奇跡のひと」は3重苦の野生児を、1人前の人間へ変えるための教育と修道女の献身的な努力を描く作品である。本作からは、プリミティヴな感動がひしひしと伝わる。監督のジャン=ピエール・アメリスは人間を見詰め、描くことにたけた作家である。彼のもたらす感動が作品の芯となり、多くの人の共鳴を得るのである。この種の作品に対し、日本の若い世代は半ば照れもあろうが、乗らない傾向がある。フランス、ドイツ、イタリア映画には、
この様な感動を愚直に語る、強い作品が散見し、作り手の意志が見る側に迫る。我が国の若手世代の監督も、「奇跡のひと」のような愚直な感動をもっともっと語って欲しい。
献身的な修道女マルグリットを演じるイザベル・カレ、実年齢は44歳だが、とても若く、少女の面影を残す、得難い柄を持つ女優だ。
もう1人の主人公、マリーに扮するマリアナ・リヴォワールはオーディションで選ばれ、彼女自身が聴障害者であり、マリーは同校に残り後輩の指導にあたったが、36歳で夭逝した。
地味な作品だが、見応えは充分。




(文中敬称略)

《了》


2015年6月初旬、シネスイッチ銀座ほか全国ロードショー

映像新聞2015年5月25日掲載号より転載

 


中川洋吉・映画評論家