「きみはいい子」
注目の若手世代、呉美保監督の新作
文学賞受賞作品を映画化
鋭い人間観察眼で描く群像劇 |
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昨年(2014年)、映画賞を総なめにした「そこのみにて光輝く」の呉美保(オ・ミポ)監督の新作『きみはいい子』が6月27日より公開される。
前作、『そこのみにて光輝く』で溢れんばかりの才能を見せた呉監督は、今作でも、持てる実力を如何なく発揮している。人間を見る観察眼や、人が生きる社会との関わり合いの描き方、タダ者ではない。彼女は、現在の日本映画界で、安藤もも子監督(「0.5ミリ」)と共に注目すべき、若手世代の女性監督であり、これからの動向に目が離せない。
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高良健吾
(C)2015「きみはいい子」製作委員会
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原作は、大人も子供も共有できる優れた文学作品に贈られる文学賞、第28回「坪田譲治文学賞」受賞の中脇初枝(ポプラ社刊)による『きみはいい子』である。5篇の短篇から成る本作のうち3篇(『サンタさんの来ない家』、『べっぴんさん』、『こんにちは、さようなら』)を採り、『そこのみにて光輝く』からのコンビ高田亮が脚本を担当している。作り手の意図である「とある町で起こるひとつの物語」として短篇3本がまとめられている。
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高良健吾
(C)2015「きみはいい子」製作委員会
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物語の大人たちは、それぞれ、子供と否応なく強いつながりを持つ。
中心となる大人の1人は、小学校教諭・岡野(高良健吾)。クラス担任として、子供たちからもみくちゃにされる。2人目にあたる大人は近所のママ友たちで、その中心のふたりのママ友・雅美(尾野真千子)と陽子(池脇千鶴)に焦点が当てられている。3人目の大人は、認知症の兆しが見える独居老人・あきこ(喜多道枝)であり、自閉症の小学生・弘也との交友が語られる。
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尾野真千子(右)と池脇千鶴(左)
(C)2015「きみはいい子」製作委員会
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教諭の岡野の造型は、今風の青年とされている。彼はどこにでもいそうな「お兄ちゃん」で、性格的には優柔不断で、その場その場を何とかしのいで来た、一寸地頭が良い大人である。
この彼は、夕方まで家に帰れない、親から見放され、「家にはサンタさんは来ない」とつぶやく児童の境遇に同情したり、教室内でおもらしをした児童とそれをはやし立てる他の児童たちに手を焼いたり、荒れる教室を何とか収めようと心を砕いたりと、苦心惨憺する。しかし、悪ガキどもに困りながらも、それに向き合う優しさも持ち合わせている。その彼、悪ガキ攻勢に一案を思いつく。児童たちに宿題として「家族に抱きしめられてくること」を出し、皆を驚かす。宿題のように、抱きしめられた児童たちが言葉以上の気持ちを感じる好結果が生まれる。
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尾野真千子(右)
(C)2015「きみはいい子」製作委員会
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公園で幼い子を遊ばせるママ友たちの輪に、雅美と娘、あやねがおり、そこに、もう1人のママ友、陽子が息子を連れて交ざる。一寸、お高い感じの雅美は、気は良いがガサツな陽子に上から目線で接する。雅美は、何か気に入らぬことがあると、すぐに娘に手をあげる。娘は母親の顔色をうかがう、いじけた子である。思わず暴力を振った雅美は、はっとし、トイレに閉じこもり泣き続ける。ある時、雅美は、陽子のマンションへ子供連れで訪問する。陽子のあけっぴろげな態度に、子供たちは伸び伸びと振舞う。その時、運悪く、あやねは、茶碗を割り、母の暴力におびえた幼い子は「ごめんなさい」を繰り返す。雅美は、力づくで娘を連れ帰ろうとする。その雅美を止めるのがガサツなはずの陽子だ。このシーン、『きみはいい子』のハイライトである。雅美を抱きしめる陽子は「親にひどいことをされたよね。私もそうだった」と雅美の左手首のタバコの火の跡を見ながら慰め、自分も親からの虐待の跡の、額のタバコの跡を見せる。2人とも親の虐待の被害者であったのだ。そして、親に愛されず育った雅美は、無意識に手をあげるようになる訳が明かされる。自分の過去を見せ、同じ境遇の人間を「つらかったねえ」と慰める陽子には、気持ちの優しさがあり、同性同士をいたわる義侠心が感じられる。陽子は幼い頃に母親から虐待を受けていたが、近所のおばちゃんが、いつも「べっぴんさん」と呼ぶエピソードを語るのであった。陽子の気遣い、心に染み入るようだ。池脇千鶴の芝居は、上手く柄にはまっている。
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冨田晴子(右)と喜多道枝(左)
(C)2015「きみはいい子」製作委員会
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短篇の最後『こんにちは、さようなら』は独居老人が主人公の物語である。
独り暮しの老婆・あきこは、多少、ボケが始まっているが、心優しい人物である。毎夕、掃除をする彼女の前を自閉症の小学生・弘也が通る。そして、判で押したように「こんにちは、さようなら」とあいさつする。
その少年が、彼女の自宅前で、ランドセルをひっくり返し、パニックに陥っている。どうやら、家の鍵を失くしたらしい。彼女は、取り敢えず、少年を自宅へ招き入れる。
そこへ、少年の母親・和美(冨田晴子)が恐縮しきってやってくる。スーパーの店員の和美は、以前、あきこのボケからくる万引きを咎めたことがあり、偶然の出会いとなる。バツの悪い思いの和美に対して、あきこは優しく接し、彼女の愚痴を黙って聞いてやる。このくだりは、原作の良さが出ている。
『きみはいい子』の優れている点は、物語を3つのブロックにするオムニバス・スタイルを避けたところにある。1つの話に次をかぶせ、そして、それぞれに繋がりを持たせる工夫がされている。そして、最終的には、ひとつの物語として収斂し、新たな物語が仕立てあげられている。この手法を、脚本の高田亮は響き合う物語と呼んでいるが、彼の脚本の手腕が光る。
1つの町と、いくつかの家族をベースに、『きみはいい子』は成立している。呉監督は「、人生は続く」と考え、「続く」限り生きねばならぬとし、生き続けるには、ほんの少しの「これからの一歩」が必要と考えている。ここには、自覚的に生きる強い意志が見られる。
呉作品の特徴は、現実感に裏打ちされているところであり、それ故に、日常の営みに深い意味がある。見る側にとり、作中で展開される人とのつながりを「そうだよな」、「わかる、わかる」の気持ちにさせる。シンプルな感情であるが、ここが作品自体の魅力となっている。今年38歳の彼女は、若手世代に属するが、人間への観察眼に優れている。国外では、カナダの若手監督、グザビエ・ドランもしかりであり、これらの若手世代の映画人の鋭い人間観察眼には驚かされる。この現象は、世界的な映画世代の交代の時期の予兆かもしれない。
本作には、人間を愛(いと)おしい存在と思わす感情が流れている。さらに、タイトルの『きみはいい子』の語感は簡潔であり、心地良い響きがある。呉監督は前作『そこのみにて光輝く』以来の好調さを維持している。
本年度のベスト・テン入りは固いと踏んだ。
(文中敬称略)
《了》
6月27日(土)よりテアトル新宿ほか全国ロードショー
映像新聞2015年6月29日掲載号より転載
中川洋吉・映画評論家
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