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「薩チャン 正ちゃん〜戦後民主的独立プロ奮闘記〜」
独立プロ映画運動の貴重な記録
戦後70年を迎え見直す機会に

 戦後の日本映画史を飾る2大監督、山本薩夫監督(薩チャン)と今井正監督(正ちゃん)が中心の独立プロ映画運動を描くのが、記録映画『薩チャン 正ちゃん〜戦後民主的独立プロ奮闘記〜』(池田博穂監督)だ。本作は戦後70年、終戦の年8月に公開される。時宣に叶った企画だ。プロデュースは山本薩夫監督の長男駿と夫人の洋子、そして、次男の洋である。本作は、日本敗戦からその後の独立プロの貴重な記録である。この2大監督を語るうえで欠かせないのが東宝争議である。この争議は、映画会社、東宝の労使対立に端を発している。


東宝争議

薩チャン(左)正ちゃん(右)
(C)独立プロ名画保存会

 1945年8月15日、日本は無条件降伏し、進駐軍(実質的にはアメリカ占領軍)の支配下に置かれた。進駐軍の占領政策は、軍国主義に代表される古い日本の否定、それからの解放であった。こうして民主主義の時代を迎えた日本では共産党が合法政党となり、労働組合の活動が一気に盛んになった。
映画界も時代の波の洗礼を受けた。働く者の権利意識が昴(たか)まり、労働者は組合を結成し古い雇傭関係を否定する声を上げた。しばらく様子を静観する形だった会社(資本家)側は徐々に態勢を整えて労働者の前に立ちはだかった。
東宝では1946年、給与制度の全面改定をめぐって労使が衝突したが、いったん和解が成立した。第1次東宝争議である。だが労使対立は再び深刻化し、社長に元東大教授・渡辺銕蔵、労務担当重役に馬淵威雄を据えた東宝は、アカと赤字の徹底排除を狙った反共シフトを敷く。東宝のこの反共体質は、同社の基本的体質となった。組合側のトップは伊藤武郎(後、山本薩夫監督の作品を多く手掛けた独立プロを代表するプロデューサー)と宮島義勇(宮島天皇と呼ばれた超大物カメラマン)、そして土屋精之だった。最終的な攻防は、1948年の1200名クビ切り反対闘争、いわゆる第3次東宝争議である。組合側は分裂、内部抗争が激化し、資本側も「来なかったのは軍艦だけ」と言われるほど大掛かりな米軍の支援を受けて対峙(たいじ)した。あわや流血の惨事というところで組合側は退去、紛争解決の条件として組合を指導した共産党員幹部が退陣する。その中には山本薩夫監督、亀井文夫監督、伊藤武郎、宮島義勇などの名があった。
そして、1950年6月25日に、朝鮮半島で戦火が上がった。この前後から占領軍のマッカーサー元帥は、それまでの民主化路線から大きく右へと舵を切る。米ソの冷戦が進むなか、マッカーサーは朝鮮戦争を足場に中国を攻略し、ソ連と直接対決する構想を持った。(拙著「挫折する力 新藤兼人かく語りき」〈新潮社〉より引用)。


独立プロの代表的監督

『真空地帯』(52)(山本薩夫監督)
(C)独立プロ名画保存会

 山本薩夫監督(1910−1983)は、1910年生まれ、今井正監督より2歳年上である。名前の如く、鹿児島生まれで、1932年に早大に進学するが、軍事教練反対の学生集会を開き、特高(アカ狩りを目的とする思想警察)に検挙され大学を中退する。
翌年、人を介して紹介された伊藤大輔監督の口利きで松竹蒲田撮影所に入社し、成瀬巳喜男監督のPCL(後の東宝)移籍に伴い、行動を共にする。5年後には監督に昇進し、2作目の『母の曲』(37)が大ヒット、監督として並々ならぬ才能を既に発揮する。
その後、時代の波に勝てず、戦意高揚映画を手懸け、召集令状を受け陸軍に入隊、その軍隊内のイジメの体験を元に『真空地帯』(52)を世に問うたが、本作は彼の初期の傑作として名高い。そして、前述の東宝争議を経て、自分たちの映画製作を目指し、独立プロの代表的監督の地位を不動のものとする。

『松川事件』(61)(山本薩夫監督)
(C)独立プロ名画保存会

 大手映画会社により構築された配給網の間を縫っての上映活動は、同志のプロデューサー伊藤武郎の力もあり、当初は順風満帆であったが、徐々に資金力不足により、経営困難に陥った。独立プロでの活動がじり貧に陥るなか、起死回生の一作が、伊藤武郎が大映の永田雅一社長に持ち込んだ企画『忍びの者』(62)(村山知義原作、市川雷蔵主演で)が大ヒット、それ以降、大手での活躍が目立つ。
彼自身、反体制的作家でありながら、娯楽映画づくりのツボも心得、大型作品『傷だらけの山河』(64)、『白い巨塔』(66)、『戦争と人間(3部作)』(70−73)、『金環食』(75)と、着実に実績を築き、単なる左翼監督の域を超えた。
大手資本での『忍びの者』で初めてギャラを手にしてスタッフ一同が驚いたエピソードは、山本プロの貧乏振りをよく物語っている。また、彼は無類の酒好きで、貧乏生活の中でも、息子に焼酎の量り売りを買いに行かせたほどだ。山本組の撮影のハードさは有名だが、撮影後の盃を片手に破顔一笑する彼のエビス顔を見ると、スタッフも「オヤジなら仕方がない」と諦めたそうだ。思想的立場を超え、スタッフの敬愛を集め、女優には特に優しく、「薩チャン先生」と呼ばれた。


インテリ映画青年

『キクとイサム』(59)(今井正監督)
(C)独立プロ名画保存会

 今井正監督(1912−1991)は山本薩夫監督とは異なり、生粋の東京人であり、実家は広尾のお寺であった。彼も左翼運動のため検挙され、東大を中退している。いかにも闘士然とした山本監督と比べ、彼はインテリ映画青年の面影を終生持ち続けた。
彼は助監督を2年勤め『沼津兵学校』(39)で監督昇進、その才能は高く評価されていた。所属する東宝での戦時中の作品は戦意高揚映画で、山本薩夫監督と同様であった。
戦後は、東宝争議には引っ掛からず、50年のレッドパージで東宝を退社。前年の49年には『青い山脈』の大ヒットを飛ばし、一流監督と目された。フリーとなり『どっこい生きてる』(51)を撮る。
50年から、山本薩夫監督、亀井文夫監督、伊藤武郎プロデューサー、などで立ち上げた新星映画社が日本の独立映画プロの原動力となる。今井正監督、山本薩夫監督は東宝時代の若手監督の仲間であり、退社後の新星映画社設立を期として、薩チャン、正ちゃんと親しく呼び合う仲となったと思われる。
豪快な直球を身上とする山本薩夫監督の作風と比べ、今井正監督は、ケレンのないオーソドックな手法で、抒情性があり、常に弱者の側に立ち、社会的テーマを追求した。戦争ものの『ひめゆりの塔』(53)は『真空地帯』と並ぶ傑作である。ほかに、日本映画史上、最多のキネマ旬報ベスト・ワンを5度獲得している。それらは『また逢う日まで』(50)、『にごりえ』(53)、『真昼の暗黒』(56)、『米』(57)、『キクとイサム』(59)である。



忘れられた巨匠にスポット

『原爆の子』(52)(新藤兼人監督)
(C)独立プロ名画保存会

 本作では2人以外に、家城巳代治監督、新藤兼人監督も取り上げている。しかし、同時代の木下恵介監督を含め、彼らは今日では忘れられた存在であり、今一度、焦点を当てる意味で「薩チャンと正ちゃん」は重要な作品である。
1950年から、日本映画の頂点1955年頃の独立プロ映画運動は、豊かな今の時代に埋もれているが、戦後70年を期に今一度、多くの人々に見直して欲しい。若い世代にとり、必ずや新鮮な驚きがあるはずだ。




(文中敬称略)

《了》


8月29日(土)より奮闘ロードショー。合わせて8月29日(土)から9月4日(金)まで「独立プロ映画特集上映」。いずれも新宿K's CINEMA (TEL: 3352-2471)にて全国絶賛上映中!

映像新聞2015年8月31日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家