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「ボクは坊さん。」
若い住職の苦闘と成長ぶり
興味をそそられる僧侶の日常描く

 日本人の生活習慣は、意識せずとも仏教的習わしに拠っている。しかし、お寺の坊さんは毎日をどのように過ごすか、仏の教えはどのようなものかは、余り知られていない。それらの疑問の絵解きが『ボクは坊さん。』(真壁幸紀監督)であり、僧侶の日常が非常に興味深い。

坊さんの体験談

光円
(C)2015映画「ボクは坊さん。」製作委員会

 本作の原作『ボクは坊さん。』(ミシマ社、2010年刊)の著者、白川密成は四国遍路、第57番札所、栄福寺(愛媛県今治市)の現役住職である。
映画の冒頭シーンは、夜明けの境内の鐘つき堂のロングで、物語の舞台である第57番札所全体が写し出される。そして僧侶が朝の勤めのため本堂へ歩む。物語は、寺の孫(伊藤淳史)が、宗派の大学に入り、その後自房に戻り、一人前の僧侶となる過程が描かれている。


仏教界の正の部分

光円と京子
(C)2015映画「ボクは坊さん。」製作委員会

 現代仏教は葬式仏教と呼ばれ、仏教思想の布教活動は大変見え難い。
また、既成の仏教集団は、多数の信者を擁し莫大な富と権力を持ち、上層部の金や権力闘争を巡る話も珍しくない。しかし一般の寺、特に地方や山間部では、僧侶が年金で食っていることも紛れない事実。さらに葬儀社がお寺を所有し、事業を行っていることも広く知られている。
だが、本作『ボクは坊さん。』は、宗教の正の部分、真当な活動状況を、若き坊さんを通して描き、そこが作品自体の魅力となっている。


主人公の煩悩

長老の葬式
(C)2015映画「ボクは坊さん。」製作委員会

 主人公、白方進は、寺に生まれたばかりに何となく坊さんになる。両親は寺に住みながら、普通の社会人であり、一人息子は、家の宗派真言宗の教育機関、高野山大学に仏道修行に行かされる。若い彼自身、僧侶になる決心はつきかねる状態だ。僧侶の資格「阿闍梨」を得て実家に戻り、書店勤めを選ぶ。
仕事場には、学校時代の友人たちが「和尚、和尚」と彼を訪ねてくる。両親は息子の仏門入りを無理には勧めない。このつかの間の普通の社会人の生活は、祖父の他界で終わり、覚悟も定まらぬまま、24歳の時「光円」と改名し、寺の跡を継ぐ。



新米僧侶

修行中の若い僧侶
(C)2015映画「ボクは坊さん。」製作委員会

 大学で仏教学を専攻したはずだが、実践に疎い彼は、お布施の業界用語も分からず、檀家の面々をあきれさせる。
その彼が、檀家の人々、友人たちの交流を経て、1歩ずつ本物の僧侶に近付く様子が物語のメインストリームとなり、単なる坊さんの世界のノゾキ見趣味を超える結果を導き出している。
彼、光円にとり、人の一生は何であろうかとの最初の疑問にぶつかる。「起きることを生と名付け、帰るを死と称す」の祖父の残した一語が終生に亘るキーワードとなる。人間の一生は、仏教では「生老病死」と例えられるが、この四文字の教えに通ずるのが、この言葉である。
この彼が、最初の仏教的体験をする段が、作品のハイライトだ。高校時代の級友、京子は勤め先の同僚であるトラックの運転手と結婚し、無事に愛の結晶を授かる。しかし、この後に、大きなドラマに直面する。
京子は、無事に赤ん坊を産み落とすが、肝心の母親たる彼女は植物状態に陥る。周囲はこの母子を巡り、おろおろするばかり。おまけに京子の夫からは離婚が突きつけられる。人非人にも等しい彼の逃げに、光円や他の級友たちは怒る。しかし、夫である青年が、一生、植物状態の妻を抱えることの苦悩を思うと、非難ばかりはできない。
そこで光円は思い切った決心をする。生まれたばかりの赤ん坊を彼が引取るのである。ここに仏教の教えが見られる。「人は生かされている存在である。決して1人で生きているのではない。これは、自我の固執の否定であり、この世を空と感じることである」。つまり、人は他者により生かされ、それは仏教の空であるとする考えである。友人の思いもよらぬ状況で、初めて受け止める教えだ。
これにより、見る側は「空」の世界の一端を理解し始める。「和尚、和尚」と呼ぶ京子とは、人として深いところでつながり、自身を愛するように他者も愛せるとする教えで2人は結びついている。その気持ちの具体的行動が光円の赤ん坊引取りである。


新米僧侶の苦闘

友だちと
(C)2015映画「ボクは坊さん。」製作委員会
 寺を継いだものの実体験に乏しい光円は、毎日が戸惑いの連続。その彼を励ますのが産後、植物状態に陥った京子であった。しかし、檀家の人々は彼に期待しながらも、もどかしさも感ぜずにはいられない。特に、檀家の長老(イッセー尾形)は、寺と檀家を結ぶ要の役割を担い、経験の浅い光円についつい苦言を呈する。
長老は「近くして、見難きは、我が心」という弘法大師空海の言葉を伝える。それは、何よりもまず自分の心を整えるとするメッセージだが、自分なりに一生懸命務めている光円にとり、自己を否定されるにも等しいひと言である。長老は「自分はただの百姓」と称するが、人生の知恵を蓄えた彼には、若い光円はまるで歯が立たない。





生ある者のつながり

坊さん野球チーム
(C)2015映画「ボクは坊さん。」製作委員会

 作中、仏教の箴言(しんげん)が散りばめられ、そこが『ボクは坊さん。』の作品価値を深め、それぞれの教えに示される言葉に、思わず人の生き方を考えさせられるところが見どころだ。
栄福寺を長らく側から支えてきた長老が他界し、光円が葬式を執り行う段となる。級友、京子の出産と彼女の植物状態、そして夫からの離婚の申し入れ、赤ん坊の引取りと、若い彼には1人では手に負えない問題が山積する。そして彼は心が折れ、寝込む。そこへ、寺を遠くから見守る長老の逝去が、光円の苦しみに追い打ちをかける。


若い僧侶の再起

 床に就き、何も手に付かない光円は、長老の訃報に接しても、起き上がれぬほどの状態であった。しかし、母親などの熱心な説得で、何とか立ち上がり、急いで葬儀会場に向かう。
会場は既に参列者は集まり、同僚の僧侶が式を執り行うところであった。そこへ足もとが定かでない彼が割って入り、長老は自分が送ると、枕経を唱え始める。
生前、長老は彼の体ごとぶつかる姿勢をきちんと見ており、母親に対し彼への信頼を口にした。そして、亡き長老を無事送った光円は、参列者から「本当に心のこもった式」と褒められる。形式的な式に慣れた人々の気持ちをしっかりと掴む。ここに若き僧侶光円の飛躍が見られ、参列者、家族、友人たちは、一皮むけた彼の成長振りを目の当たりにする。



考えさせられる"人の生き方"

 光円の悩み、生き方から、仏教を通しての人の生き方が理解させられる。すなわち「人の生は永遠であり、生きているうちは祭りの一瞬、そして、亡くなってからは、再び永遠の国へ戻る」とされており、物事長い単位で見る視点が貫徹されている。大変にわかりやすい考え方で、日々生きる人にとり参考になる教えだ。
本作は、映画で仏教を考える一作だ。
この作品を引っ張る重要な人物は、若い僧侶の光円と彼を見守る長老である。光円に扮する伊藤淳史は、『ビリギャル』(土井裕泰監督)の坪田講師に続くはまり役で、今年度の主演男優賞の候補と目される。







(文中敬称略)

《了》


『ボクは坊さん。』は、10月24日から全国ロードショー
(10月17日より四国エリアで先行ロードショー)

映像新聞2015年10月19日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家