『消えた声が、その名を呼ぶ』
アルメニア人大虐殺を逃れた男
家族を探し求める苛酷な旅 |
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ドイツ映画界の若き大物ファティ・アキン監督の新作『消えた声が、その名を呼ぶ』(原題"The Cut"、以下『消えた声が、』)は壮大な歴史的ロードムービーである。トルコによるアルメニア人大虐殺を背景とし、長い間、タブー視されたテーマを扱っている。
物語は1915年に起きた大虐殺を直接描くのではなく。灼熱の砂漠の強制収容所に連れてこられるアルメニア人の鍛冶職人、ナザレット(タハール・ラヒム)を主人公としている。他のアルメニア人男性たちと一緒に連行され死刑判決を受け、喉をかき切られる運命にあった彼は、執行のトルコ人の手加減で九死に一生を得、声を失いながらも命拾いし、第2の人生を歩む。ここから、切り離された家族を探し求める、想像を絶する地球半周分の旅が始まる。
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ナザレット
(C)Gordon Muhle/ bombero international
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彼は今年43歳で、既にベルリン、カンヌ、ヴェネチア各国際映画祭の受賞歴を誇る、ドイツ・ハンブルグ生まれのトルコ移民の2世である。ドイツは戦後、復興のための労働力不足対策として、大量のトルコ人を移民として受け入れた。建前上は人種差別がないと言われるドイツ社会で、白人の他人種に対する優越意識から、トルコ系移民は二等国民とみられているフシがある。これはフランスの旧植民地マグレブ圏(アルジェリア、チュニジア、モロッコ)移民に対する差別と同根である。パリのISテロ犯人たちは移民の子孫であり、彼らの鬱積した日常的不満がテロの引金とする見方はこの差別問題から出てくる。両国の映画界、ドイツではトルコ系移民2世、フランスではマグレブ系の映画人グループが精力的に活動し、現状の批判や移民問題についての作品を多く手懸けている。アキン監督の活躍は疎外された人々の意識を代弁し、彼がトルコ系でありながら、タブー視されてきたアルメニア人大虐殺を検証するのが『消えた声が、』である。
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双子の娘たちとナザレット
(C)Gordon Muhle/ bombero international
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トルコによるアルメニア人大虐殺の経緯を先ず述べる。
国家としてのアルメニアは、11世紀にオスマン・トルコに滅ぼされ、古代アルメニア国はオスマン・トルコの支配下に入る。被支配民族たるアルメニア人は経済活動により、生きる道を見出す。弱体化したオスマン・トルコの末期の1915年に、ロシアの南下政策への警戒と、経済的優位に立つアルメニア人への反発で大虐殺が始まる。この時期は、トルコで平和裏に共存しているアルメニア人たちの生活が導入部として描かれる。
主人公のナザレットは妻と幼い双子の娘たちとの幸せな日々を送るが、ある日突然、トルコ憲兵により男性だけが砂漠へ連れ出され、大半はそこで殺害される。残った家族も強制収容所へ送られ、家族は離散する。この難を逃れ、多くのアルメニア人が故国を離れ、中東、ロシア、そしてキューバ経由アメリカへの移住を余儀なくされる。
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砂漠で行き倒れるナザレット
(C)Gordon Muhle/ bombero international
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家族を失い、声も失ったナザレットは失意のどん底に沈む。その彼は、虐殺を生き延び各地を巡り、途中の強制収容所で弱り果てた義姉と再会する。生きる気力を失った彼女は、彼に首を絞めることを頼み、彼は止むなく手を貸す。ここに、アキン監督の持論である、人間の本来持つ悪の一面が提示される。人が生きる上で、綺麗ごとだけではなく、他人を犠牲にせねばならぬ時もあり得るとする考え方だ。
ある時、偶然、娘たちの生存の情報がもたらされ、ここから、彼の生きる意欲がよみがえり、最終章の壮大なロードムービーへと物語は展開する。
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砂漠のアルメニア人たち
(C)Gordon Muhle/ bombero international
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近隣諸国を巡り、娘探しを始めるが、無一文の上、声を失ったナザレットには、人々に娘の消息を訪ね歩く旅は大変な難行である。
ここで、彼が頼り、そして手助けしたのが、故国を離れ、世界各地に散るアルメニア・コミュニティである。レバノンの孤児院で、双子の娘の生存の確かな証である写真を見つけるが、彼女たちは既にキューバへと渡った後である。そこで父親たるナザレットは船乗りとなり、大陸を渡る。行先は、ハバナの旧知のアルメニア人の友人であり、彼から、娘たちはアメリカ本土へと渡ったことが知らされる。彼の生き甲斐となる娘探し、ありとあらゆる手段、時に強盗までして、渡航費用を稼ぐ。キューバを出発する前に、見送りの友人が「金はどうした」と一応尋ねるが、事情を察し、黙って彼を送り出す。
10世紀に亘るオスマン・トルコ治下のアルメニア人の海外移住により、世界各地で同国人のコミュニティが形成される過程が浮き彫りにされる。このコミュニティの存在なしでは、彼の旅は成り立たない。最終的に、彼はアメリカ北部の田舎町で娘と再会するが、もう1人の娘は少し前に病没し、母はトルコの強制収容所で亡くなり、親子2人きりとなる。しかし、8年間探し求めた家族の絆を取り戻すが、壮絶な旅は、むしろ新たな物語の始めとも受け取れる。歴史的悲劇に翻弄される人間は、枚挙イトマがない。現代では、ヴェトナム、イラク、アフガン、シリアでも多数の現地の人々が犠牲になり、世界平和は夢のまた夢であることの苛酷さを描くことこそ、アキン作品の狙いである。
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新天地アメリカへの旅発ち
(C)Gordon Muhle/ bombero international
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タブー視されてきた事件検証
1915年のトルコによるアルメニア人大虐殺について、死者は100万人−150万人と言われ、これはアルメニア人抹殺の意図を持つ、非人道的行為である。これを参考にしたのがヒトラーのユダヤ人抹殺とされている。この事件に関して、オスマン・トルコの後継国であるトルコは終始一貫して関与を否定し、99年後の2014年にようやくエルドアン首相が正式に謝罪を表明している。しかし、この問題の根本解決はトルコ側の頑なな姿勢により国際世論の反発が強く、未だ遠しの様相を帯びている。
− 国際的協力
加害者はトルコだが、トルコ移民のアキン監督への映画界の国際的共感がある。シナリオの草稿を見たフランスのコスタ・ガブラス監督は、絞り込みをアドヴァイスし、アメリカのマーティン・スコセッシ監督は、アメリカ的な脚本とするためアドヴァイザーとして、アルメニア系アメリカ人でスコセッシ監督の脚本家でもあったマルディク・マーティンへの紹介の労をとる。国境を越えての連帯がアキン監督を支えている。
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娘を訪ね歩くナザレット
(C)Gordon Muhle/ bombero international
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この100年前の事件に立脚する『消えた声が、』の物語構成はシンプルに組み立てられている。
家族の絆、アルメニア人のアイデンティティ、世界にまたがるアルメニア人のコミュニティと連帯感が作中に盛り込まれ、本作をより強靭に仕立てあげている。このことはアキン監督の、社会と向き合う強い意志が作品の底流に流れているからである。換言すれば、大量虐殺という歴史上の事件から人道的視点に立つ普遍的な見方が提示される、見るべき作品である。
(文中敬称略)
《了》
2015年12月26日から角川シネマ有楽町、YEBISU GARDEN CINEMAほか、
全国順次ロードショー中
映像新聞2016年1月4日掲載号より転載
中川洋吉・映画評論家
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