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『さざなみ』
心理的葛藤の推移を細やかに
普遍的なテーマについて奥深く活写

 地味ながら、普遍的なテーマを奥深く活写する『さざなみ』(アンドリュー・ヘイ監督、原題『45 YEARS』/英国)が公開される。「ベルリン国際映画祭2015」コンペ部門で銀熊賞(主演女優賞、主演男優賞)ほか、各国で賞を総なめにした、待望の1作である。製作は映画専門放送局「フィルム4」と、ブリティッシュ・フィルム・インスティチュートが手懸けた。「フィルム 4」絡みの作品は質的に間違いがない。今回も当たりで、筋が良く作品に格調がある。

原作

ケイト(シャーロット・ランプリング)
(C))The Bureau Film Company Limited, Channel Four Television Corporation and The British Film Institute 2014

  物語自体、興味深く、見る者の脳裡にじっくり染み渡る。45年間生活を共にしてきた夫婦間に、ある事件を契機に亀裂が生ずる。その数日間の心理状態を扱う物語の推移が見どころである。
原作はデヴィッド・コンスタンティンの短篇 『In Another Country』で、アンドリュー・ヘイ監督は原作について「まるで過去のリマインダー(記憶にとどまるべきもの)のすべてをカオスへと放り込むもの」と語っている。言葉を変えれば、地球のひび割れの中から、疑い、恐れ、何年も言葉にされることのなかった抑圧された感情の総ての表出である。


夫婦

ケイトとジェフ(トム・コートネイ)
(C))The Bureau Film Company Limited, Channel Four Television Corporation and The British Film Institute 2014

 物語は妻の視点から語られる。その妻ケイトに、英国出身の大女優シャーロット・ランプリング(実年齢70歳)が扮(ふん)し、夫のジェフには、1960年代の英国、怒れる若者世代を代表するトニー・リチャードソン監督の『長距離ランナーの孤独』(62年)に抜擢され、その後、第一線で活躍し続けるトム・コートネイが演じている。
手堅く、うまい役者を配し、若いヘイ監督の映画センスの良さを感じさせる。
ケイトは学校の先生、ジェフは工場のエンジニアで、2人は既に第一線を退き、老後の日々を送るカップルである。



発端

ケイト
(C))The Bureau Film Company Limited, Channel Four Television Corporation and The British Film Institute 2014

 物語は狙いとして、シンプルな作りに仕立て上げられている。週末の土曜日に結婚45周年祝賀パーティを控えた、月曜日から土曜日までの6日間を追っている。
月曜日の朝、地方都市の田園の一角に住む2人の普通の日常が始まる。ケイトは大きなシェパード犬を伴い朝の散歩。緑に覆われる田園での、いつものようなルーティーンの生活が静かに始まる。この田園風景の静かさが後の波乱の伏線となる。
特に、天地を揺るがす大事件が起こるわけではなく、2人の心理的葛藤が細やかに綴られる。内面的で起伏の少ない物語だけに、俳優の力量が問われる。さらに老年者が主人公であり、70歳ぐらいの俳優でなければ務まらぬ設定である。
この原作の意図に応えるのが、夫役ジェフのトム・コートネイと、妻役ケイトのシャーロット・ランプリングである。時代は1960年代で、当時の数々のヒット曲が作中散りばめられる。その中の一曲がプラターズの『煙が目にしみる』である。



結婚45年の夫婦間に亀裂

ピアノを弾くケイト
(C))The Bureau Film Company Limited, Channel Four Television Corporation and The British Film Institute 2014

 老境に差し掛かった2人を襲う問題が月曜日の朝に発生する。1通の手紙である。
ケイトが何事かと軽い気持ちで尋ねると、昔の恋人の遺体が50年後の現在、スイスの山の中で発見されたとの通知の手紙だとジェフは答える。彼はまるで悪びれることなく、昔の恋人カチャについて話し始める。妻の動揺を意に介せず語る彼は、相当、無神経な人間と見受けられる。
ジェフは、ケイトと結婚する前にカチャと付き合い、2人は結婚するはずであった。この若いカップルはスイス登山をともにし、カチャは氷河のクレバスに落ち遭難する。
カチャ亡き後、ジェフは、ダンスホールで知り合ったケイトと結ばれ、2人は45年にわたる結婚生活を送る。
それぞれが職業を持ち、地方都市に一軒家を構え、子供はいないが幸せそのものの夫婦とみられ、実際、極めて平穏な結婚生活を楽しんでいる。ケイトは「昔のこと」と平静に構えるが、内面では不安と嫉妬がよぎる気持ちを抑えざるを得ず、彼女の苦しみが始まる。



心の揺れ

祝賀会前のケイト
(C))The Bureau Film Company Limited, Channel Four Television Corporation and The British Film Institute 2014

 ケイトは内心を隠し、平静を装うが、少しずつ広がる不安と嫉妬には抗(あらが)えない。
火曜日の夜、ケイトがふと気づくと、隣りに寝ているはずのジェフの姿がない。彼は屋根裏でカチャの写真を探している。戻った彼に彼女は、写真を見せるように話すと、彼はいとも無造作に50年前の恋人の写真を見せる。ここで初めて、彼女はカチャの実像を目にする。平静であろうとするが、不安と嫉妬の気持ちはますます広がる。


気持ちの揺れの頂点

ケイトとジェフ
(C))The Bureau Film Company Limited, Channel Four Television Corporation and The British Film Institute 2014

 木曜日の昼間、ジェフは勤務先のOB会へ出かけ不在。夫の昔の恋人のことが頭を離れないケイトは、意を決し、屋根裏へ踏み込む。
そこで彼女は、カチャの生前のスライド写真を見出す。映し出されるカチャ、この世に居ないはずの彼女の存在が、ケイトの内部でどんどん具体化する。ほろ酔い機嫌で帰宅したジェフを、彼女は突き放す眼差しを向ける。ジェフを信頼できる伴侶とは思えなくなるケイト―。


ケイトの怒り

 翌朝起きると、既にジェフの姿はない。彼女が以前からの察しの通り、ジェフのスイス行きを知る。
帰宅後、カチャの名を口にする夫にケイトは我慢しきれず反応し、「彼女の名前を言わないで。匂いが家の中に浸み込んでいる」と激しい口調でなじる。
彼女の気持ちをくみ取れない彼は、さほど気にする風でもない。この男女の感性の差の描き方が面白い。



映画的空間

 原作が展開する物語は、男女間、夫婦間の危機の一面を強調している。果たして、昔の恋人の存在に一喜一憂するなら、結婚生活の意味がその根幹から問われるが、この疑問にどのような回答を与えたらよいのだろうか。
たとえ不合理でありながらも、人間の持つ説明のつかない不安や嫉妬は厳然と存在することを『さざなみ』は説いているのであろう。そこが映画や文学の芸術に許されている空間と解釈できる。


残るわだかまり

 人間の抑えきれぬ内面を突く物語であり、原題の『45 YEARS』という防波堤が一瞬にして崩れ去る様子を、極めて知的に本作は描いている。
ラストは、結婚祝賀パーティでジェフは涙ながらに妻への謝辞を述べ、2人は昔懐かしい60年代のヒットソング、『煙が目にしみる』に合わせ踊り、しみじみと2人の世界に浸る。
しかし、ケイトのわだかまりがふっ切れない幕切れのシーンが全てを表し、人間の内部に巣食う、人には見せない負の思いが強く残る。

 



(文中敬称略)

《了》

4月9日よりシネスイッチ銀座ほか全国順次公開

映像新聞2016年4月4日掲載号より転載

 

 

 

中川洋吉・映画評論家