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『クワイ河に虹をかけた男』
旧日本軍による「死の鉄道建設」
生涯を捧げた日本人の足跡追う

クワイ河

 クワイ河といえば、『戦場にかける橋』(1957年/デヴィッド・リーン監督、1957年アカデミー賞受賞)が良く知られている。最近では、『レイルウェイ 運命の旅路』(2013年/ジョナサン・テプレツキー監督)がある。そして近々、日本人ドキュメンタリストの手になる、日本軍による悪名高い「死の鉄道建設」をテーマとする『クワイ河に虹をかけた男』が公開される。第二次世界大戦末期、日本軍がタイ−ビルマ間に建設した「泰緬(たいめん)鉄道」にまつわる物語であり、大量の白人捕虜と強制徴用のアジア人に多大な犠牲者を出し、死者の慰霊と戦後処理に一生を捧げた、一日本人の足跡を追っている。

泰緬鉄道の建設

墓地捜索隊(左 永瀬隆)

 泰緬鉄道とは、1942年に物資補給輸送のため日本軍が建設した鉄道で、地元のアジア人25万人以上、英国、オーストラリア、オランダの連合軍(以下連合軍)捕虜6万人余りが酷暑の中、岩盤の固い地帯での強制労働をさせられる。そして、連合軍側は1万6000人、アジア人労務者(ロウムシャ=現在ではインドネシア語になっている)は数万人(アジア側からの訴えがなく、調査もされず推定値に留まる)の死者を出した。
この強制労働は、捕虜の扱いを定めるジュネーブ協定に明らかに違反し、連合軍側からは日本に対する多くの批判が出た。だが、今もって日本政府は謝罪をせず、補償もしていない。
戦時中の日本軍はアジアで大量の死者をもたらし、南京大虐殺、朝鮮人慰安婦問題を起こすが、これらの事件も、泰緬鉄道同様に今もって正式な謝罪はなされず、逆に犯罪行為自体の存在を否定する風潮さえ出ている。
日本軍はアジアで戦線を拡大し過ぎ、ビルマ侵攻を企て、物資補給のため泰緬鉄道建設に乗り出すが、英国が既に複雑な地形や気候の厳しさのために断念している。ビルマ侵攻に関しては、その後、日本軍はインドへ兵を進めるインパール大作戦で敗北を喫した。補給線を無視したずさんさで、無謀な作戦の代名詞となる。人間の命を大切にする考えが、明らかに欠けている。


永瀬隆について

永瀬隆さん

 1人で犠牲者慰霊と戦後処理
この建設の惨状を目の当たりにしたのが、陸軍通訳(青山学院大学文学部英語科出身)の永瀬隆(1918−2011年)である。彼は、タイ側の建設拠点カンチャナブリの憲兵分隊に配属される。そこで、日本兵による暴行、拷問を見、復員後、連合軍が派遣した墓地捜索隊に同行する。
ここで初めて悲劇の全容を目の当たりにし、彼を建設犠牲者の慰霊に駆り立てる。この時以来、彼は妻の佳子と共にタイ巡礼を始め、その回数は生涯135回。彼は倉敷で英語塾を経営し、慰霊と贖罪(しょくざい)のため、1964年以来自費でタイへ通う。
彼の趣旨に賛同し寄付もあるが、全体的には個人の支出であり、行政からの支援は一切ない。また、永瀬夫妻には子供はおらず、後継者もいないだけに、後に続く人(もしいれば)や彼の足跡をたどる意味でも、本作は貴重な証言だ。



タイへの恩返し

元捕虜デイキンさんとの握手

 終戦後、復員する日本軍兵士は12万人とされる。タイ政府は彼らに、飯ごう1杯のコメと中ぶた1杯の砂糖を、連合軍に黙って支給する。多くの人々を殺した敵に対する温情、タイはさすがに慈しみの仏教の国である。
このタイ政府の行動に恩義を感じ、永瀬は1965年から自宅にタイ人留学生を受け入れ、86年にはクワイ河平和基金を設立、多くの学生に奨学金を贈り続けた。その彼らが永瀬夫妻を、お父さん、お母さんと慕う様子は微笑ましい。



謝罪

永瀬さんとロマックスさん

 永瀬隆の初期の行動は、日本軍に対し敵意を持ち続ける連合軍兵士への謝罪から始まる。
本作の冒頭の場面は、日本軍が連合軍を捕虜にした行為を容易に想像させる。やせ細った白人捕虜たちが一列となって、日本軍独特のふんどし姿で歩かされている箇所である。痛々しく目をそむけたくなる光景だ。
捕虜の虐待に対し、タイの現場に居合わせて英国人は「当時の医療、食事の酷さを訴え、なぜ死ぬまで働かされるのか、自分たちはヒロヒトのために死なねばならないのか、何故だ、許せない」と敵意に満ちた表情で、永瀬隆に対し声を荒げる。



忘れ去られるロウムシャ

奨学生たち

 鉄道建設には、連合軍捕虜以外にアジア人"ロウムシャ"が徴用される。25万人といわれるが、実数は不明のままである。約1万6000人の連合軍捕虜が死亡し、アジア人は約4万から7万人の間と推定される。いずれにせよ、白人よりアジア人の死亡数が圧倒的に多い事実は重い。
例えば、米国、英国、フランスが関与する戦争で、死者は現地民が圧倒的に多い。泰緬鉄道でも現地のロウムシャの死亡が多い。白人とほかの人種の間には命の軽重の差が明らかに存在する。


すべての人への目配り

元奨学生の看護師との再会

 本作の主人公、永瀬隆を偉いとつくづく思わせるところは、連合軍兵士と同じように、多大な犠牲を被るタイを中心とするアジアの国の人々にも心を寄せる点である。
生存する元ロウムシャを訪れる。ジャワ島出身の彼は、戦後もタイに残る。1人暮らしの彼の困窮振り、可哀想を通り越す驚きがある。よくぞ、ここまで生き延びたとの感慨だ。その彼を永瀬隆は故郷のジャワ島に帰郷させる。1人の善意の人間が、困り果てた人間に手を差し伸べる、小さな行為だが、このおとこ気が、彼、永瀬隆を支えていることを確信する。


元捕虜との再会

鉄橋と列車

 ある時、永瀬隆の自著『虎と十字架』を読んだ元捕虜のエリック・ロマックスの夫人から一通のレターを受け取る。ロマックスは鉄道建設当時スパイ容疑の廉(かど)で、収容所で水責めの拷問を受け、今でも悪夢に襲われる。そこで夫のために、彼との文通を依頼し、2人は手紙を交換する。1993年にロマックスは来日し、2人は直接会う。
ロマックスは鉄道建設が終わり別の地へ移動するが、その折、永瀬が「Keep your chin up」(頑張れ、元気を出せの意)と周囲にわからぬように英語で声をかける。この言葉に励まされ、今まで生き来られたと、再会の折に告白される。たった一言の短い言葉が人間の生き方を支える。まさに人生の機微である。
離日の際、永瀬隆は「自分は君に暴力を振るったことはない」と確認を求め、ロマックスは「君から暴力を振るわれたことはない」と応じる。2人は盟友、そして、友人以上の間柄となる。
このロマックスの体験談が英国で出版され、ベストセラーとなる。そして彼の著書をベースに劇映画『レイルウェイ 運命の旅路』が製作された。
永瀬隆はクワイ河平和寺院を建て、連合軍兵士の墓を訪れ死者の霊を慰め続ける。そして、自身の死を前にして最後のタイ巡礼。その時、クワイ河鉄橋から虹が現れるが、これは大変珍しい現象という。これが本作のタイトルとなる。
彼は、心身ともにボロボロとなり帰国。自分自身を立て直す努力のため、戦争の無残さを訴え、個人的に戦後処理を果たす。人間らしく生きるためには、何かの対象を定める必要を痛感する。
そして、タイ−日本に虹をかけることを使命とし、最後にクワイ河にかかる本当の虹を目にする幸運に恵まれる。生きることは志を持つことであり、志があれば生きられることを、永瀬隆は身をもって語り掛けている。
本作は、瀬戸内海放送(KSB)制作作品で、1994年からテレ朝系列のドキュメンタリー番組枠、テレメンタリ―で放映。その8本の番組を再編集し、2時間の劇映画に仕上げた。
作品のもつ濃度は非常に高い。労作である。監督は満田(みつだ)康弘。

 



(文中敬称略)

《了》

8月27日(土)よりポレポレ東中野にてロードショー、
7月9日(土)より岡山、シネマクレールにて先行公開

 

中川洋吉・映画評論家