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『SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2016』
世界88カ国から919本の応募
在米日本人監督の作品に注目

 第13回を迎えた「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2016」(以下、Dシネマ映画祭)は、7月16−24日の9日間、埼玉県川口市のSKIPシティを中心に開催された。世界88ヵ国から919本の応募があり、メインのコンペ部門は715本を数えた。

 
世界の映画祭がデジタルに入りかけた時期に、Dシネマ映画祭は設立されたが、フィルム衰退の昨今、ほとんどの作品がデジタル化され、いささか新鮮味を欠き、ここが主催者である埼玉県、川口市、そして選考を司る事務局にとって毎年頭痛の種となっている。
内容について、関係者は当然、知恵を絞っているが、現在まで妙薬は出ていない。筆者の個人的見解だが、アジア(主として東南アジア)や中近東、そしてメインに韓国、中国、台湾に特化することも一つの方向性である。Dシネマ映画祭の熟慮が望まれる。
しかし、光明はある。それは毎年1億円を支出する、埼玉県、川口市の文化に対する熱意である。行政の援助なくして、映画祭自体長続きはしない。


今年のコンペ作品

受賞作品は次のとおりである。
最優秀作品賞
『朝日が昇るまで』(メキシコ、アレハンドロ・グスマン・アルバレス監督)
監督賞 『タンナ』(オーストラリア、バヌアツ、ベントレー・ディーン、
マーティン・バトラー監督)
観客賞 『タンナ』
脚本賞 『アヒルからの贈り物』(ベルギー、オリヴィエ・ランジェ監督)
SKIPシティアワード 『見栄を張る』(日本、藤村明世監督)

『朝日が昇るまで』(C)2015 Pluto Films

『タンナ』(C)2015 Contact Films

『アヒルからの贈り物』(C)Ring Prod

『見栄を張る』(C)Akiyo Fujimura

コンペ部門は、長編製作本数4本以下の若手監督作品を対象とし、世界から715本の応募があった。全体で12本選考され、その内訳は海外から9本、日本から3本。
オープニング作品は日本の熊谷まどか監督作品『話す犬を、放す』で、製作は埼玉県/SKIPシティ 彩の国ビジュアルプラザ。彼女は既に短編部門への出品歴(2013年)があり、彼女の才能に注目し、映画祭側の製作参加となった。


注目作品

『アウト・オヴ・マイ・ハンド』
(C)TELEVISION

 コンペ出品の中で一番の力強さ
受賞作品と関係なく、筆者を一番印象付けた作品が『アウト・オヴ・マイ・ハンド』(米)だ。監督の福永荘志は在米で、本作は、昨年のベルリン国際映画祭においてパノラマ部門で世界初上映された。彼の現実を見据える視線には並々ならぬものがある。
本年のコンペ出品作品の中で一番パワーに富む。この力強さが日本の若い監督に欠けている。
舞台は赤道直下の密林の暑さが直に伝わる、南米リベリアの熱帯のゴム農園。雇われる労働者たちは酷暑の中での低賃銀労働を強いられる。コーヒーが極端に安い価格で取引される現状を告発する映画作品があるが、この天然ゴム採取の農園も同様と思われる。主人公は黒人のシスコ。彼は低賃銀に抗議するために仲間たちとストを決行する。彼の妻は、家計が苦しくなると反対するが、聞く耳を持たない。
しかし、会社側の切り崩しで参加者が1人、また1人と去り、ストは失敗に終わる。低所得の人々が労働争議で敗れ去る、以前の労働組合運動と重なる。その一例が、山本薩夫監督の『太陽のない街』(1954年)であろう。
この苦境を境に話の舞台は米国中心となる。貧しい農民たちは日ごろから、米国へ行けばなんとかなると考え、多くの若い農民は海を渡る。密入国である。シスコは、ニューヨークでタクシー運転手の職を見付け、もぐりで働き始める。
ある時、昔を知る同胞と顔を合わす。彼は以前のシスコの所業をネタに脅しをかける。
シスコの過去の記憶の詳細は、作中では触れられていない。この同胞とのもめ事でひき逃げ事件が起きる。
このように、シスコの苦難の道が描かれ、アメリカン・ドリームどころの話ではない。貧乏人はいつまでも貧しい冷厳たる現実が示される。希望のない話だが、現実の世界を照射している。



古典的なギャングもの

『暗黒街』
(C)LA CHAUVE SOURIS / (C)INDIE SALES

 絵に画いたような社会派ギャングものが、イタリアから出品された。『暗黒街』(ステファノ・ソッリマ監督)である。
時代設定は2011年、ベルルスコーニ首相退陣一週間前と、今の時代を映し出している。1つのリゾート都市の開発計画を巡る大物ギャング、悪徳政治家、そして枢機卿(すうききょう)が絡む抗争劇で、互いの駆け引きが見ものだ。
政財界の癒着の犯罪劇は、伝統的にイタリア映画の得意部門。このジャンルでの超大物監督フランチェスコ・ロージ監督(『都会を動かす手』[1963年]、『黒い砂漠』[72年])の傑作がある。
本作は非常にリズムが良く、悪徳政治家の色ざんまい、彼の相手の娼婦の事故死、それに群がり脅しをかけるギャング、常に影の存在として現れるバチカンと、くんずほぐれずの悪党の抗争劇、社会派故に勧善懲悪とならぬ不条理さ、毒と毒のぶつかり合い、映画を見る醍醐味(だいごみ)に溢れる。



インド映画の日常性

 最近のインド映画には、日常生活を描くドラマが確実に増えている。昨今の注目すべき作品に、『マダム・イン・ニューヨーク』(2012年)、『めぐり遭わせのお弁当』(13年)、『マルガリータで乾杯』(14年)などが日本でも公開された。
インドからの『ニュークラスメート』(アシュヴィニー・アイヤル・ティワーリー監督)は、最近の日常性を描くインド映画の範ちゅうに入る作品だ。主人公であるシングルマザーのチャンダーはメイドで、1人娘アプーを育てる。娘はいつも朝起きられず、成績も悪く母親泣かせ。チビながら、いっぱしに「どうせメイドになるしかないから勉強しても無駄」とふてくされる。ここにインド社会独特のカースト制の影響が見られる。
思いあぐねたチャンダーは、雇い先の夫人から「あなたも学校へ行けばアプーを教えられる」とけし掛けられ、実際に小学校に入学。娘と同級生となる。嬉々として制服に着替え登校する母、迷惑顔の娘、この対照が微笑ましい。
級友の助けもあり、次第にアプーは苦手の数学についていけるようになる。母は娘の上級校進学のため、夜は力仕事をし、家計の足しにする。カーストにより社会階層が固定するインド社会で、母娘が何とか風穴を開けようと試みるストーリーに強い社会性がある。女流監督の脚本がさえ、生活、インド社会を教育面から見る一考察である。見応え充分だ。



日本映画

『見栄を張る』
(C)Akiyo Fujimura

 Dシネマ映画祭は、日本の新人作品を熱心に採り上げ、若き映画人の登竜門となっている。「SKIPアワード」(同施設の最新機材の無料使用)獲得の『見栄を張る』(藤村明世監督)は、売れない女優の卵が主人公。地方住まいの姉の急逝による帰郷が物語の発端となり、若い女性の生き難さが描かれている。亡姉が葬式の泣き女であることを初めて知り、その姉の跡を継ぎ故郷に踏み留まる筋立てである。
ほかの日本作品も物語自体は興味深く、若い世代の感性の良さが見られる。しかし、メインの舞台が芸能界や広告界と、楽屋的な話で、視点が狭い。また、全体に録音技術が稚拙で見づらい。ここは改めねばならない。映画は商品という一面を持ち、技術をおろそかにすると作品を台無しにする危険がある。

 



(文中敬称略)

《了》

映像新聞2016年8月22日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家