『手紙は憶えている』
アトム・エゴヤン監督が描くサスペンス
意表をつく発想にただ感嘆 |
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見ている方が「一本取られた」と思わず唸(うな)るサスペンス・スリラーが、アトム・エゴヤン監督の新作『手紙は憶えている』(カナダ・ドイツ製作)だ。最近、これほどのひねりの効いたドンデン返しは見たことがない。見事としか言いようがないサスペンスの意表をつく発想に、ただ感嘆するのみだ。
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ゼヴ(主人公)
(C)2014, Remember Productions Inc.
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アトム・エゴヤン監督はカナダ出身であり、彼の描く光景は荒涼とした雪原が多く、いかにも雪に閉ざされたカナダの雰囲気が見る者を印象付ける。近作『デビルズノット』(2014年)、『白い沈黙』(15年)を見れば、同監督の心象風景としての白い世界がよく分かる。初期の『エキゾチカ』(1994年/カンヌ国際映画祭監督週間出品)では、不条理な状況が設定され、その特異性をもってカナダ人監督として注目された。
彼の代表作は『アララトの聖母』(2002年)であろう。アルメニア移民2世である彼は、自身の出自であるアルメニアにおける、トルコによる大虐殺事件を描く『アララトの聖母』を世に問い、自身のアイデンティティを強く押し出した。
オスマントルコによるアルメニア人大虐殺は19世紀末と20世紀初頭の2度にわたり、死者は推定100万から150万人といわれる。この一件で、欧州諸国はオスマン帝国の継承国であるトルコを現在でも非難し続けている。トルコのEU不加盟は、トルコが望むにもかかわらず、EU諸国の反発が一因とされている。もちろんトルコは一貫して謝罪を拒否している。
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ゼヴとマックス(右)
(C)2014, Remember Productions Inc.
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老人の旧ナチ戦犯への復讐劇
物語は一通の手紙から始まる。舞台は米国、多くのナチ残党がドイツ敗戦後に米国に渡る事実を基にしている。
ある地方都市の高齢者ケア施設が最初の舞台。ケア施設と言っても、富裕層対象らしく、各人が大きな個人部屋を持つ豪華なつくり。1人の老人、ゼヴが夢うつつで、眠い目をこすりながら亡妻の名を呼ぶ。
彼は1週間前に妻を亡くしたばかりだが、既に軽い認知症を患い、過去と現在が判然としない。家政婦に言われ、彼はやっと正気を取り戻す。
ゼヴは本作『手紙は憶えている』の主人公で、当年90歳のアウシュヴィッツ強制収容所の数少ない生き残り組。作品を通しての鍵は、彼のマダラボケ症状を思わす認知症である。この彼に朝食後、同じケア施設で暮らす老人、マックスが近づき手紙を渡す。この手紙が作中、大きな役割を果す。
物語の先導役の手紙のアイデアを作り出したのが、37歳と若い脚本家ベンジャミン・オーガストで、この作品が1作目である。このオーガストの類いまれな発想が、見る者をぐいぐい引き付ける。もちろん、脚本を最初に目にしたエゴヤン監督もプロデューサーも、この脚本に目が釘付けになったのは言うまでもない。
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1人目のルディ(ブルーノ・ガンツ)
(C)2014, Remember Productions Inc.
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70年前にナチスに家族を殺されたのはマックスも同様で、多少、認知症気味のゼヴの症状を利用する。マックスいわく、「君が1週間前に話したアウシュヴィッツのこと、多分よく思い出せないと思い、言ったことを手紙にしたためておいた」と話を持ち掛ける。
実際、ゼヴはナチスに対する憎しみは忘れぬが、ある瞬間、その悲劇が記憶の中から抜け落ちるときがある。マックスによれば、家族を殺したナチスの兵士は、現在も身分を偽り米国で生き延びているとのこと。犯人の名は「ルディ・コランダー」であり、彼は刑死した捕虜の身分を盗み、生存したことが分かっている。
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ピストルを構えるゼヴ
(C)2014, Remember Productions Inc.
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すべての情報は「サイモン・ヴィーゼンタール・センター」からのものである。同センターはロサンゼルスに本部を置く非政府組織で、ナチ・ハンターの威名をとる。有名なアイヒマン裁判の仕掛けも、同センターの手によるものである。
敗戦後、ナチス戦犯たちの多くは南米に潜伏したが、1961年にイスラエルの諜報機関「モサド」(1949年創設)がアルゼンチン潜伏中のアイヒマン元ナチス親衛隊中佐を拉致し、イスラエルの法廷に立たせた。
アイヒマン自身は、ヨーロッパのユダヤ人を駆り立て、アウシュヴィッツを始めとする6つの収容所にユダヤ人を移送した中心人物である。同センターが世界中のネットワークを駆使し、彼の居所を突き止め、強引に拉致し、その存在を世界に知らしめた。
戦後70年経た現在でも、90歳を超えた逃亡中のナチス戦犯は現在10人あまりとされ、同センターは追及の手を緩めず、彼らの行方を現在も追っている。これには、1979年議会決議により、ナチスによる殺人罪への時効が中止された法的根拠に基づいている。従って、100歳近くの老戦犯も容赦なく捕えられる。
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旅のゼヴ
(C)2014, Remember Productions Inc.
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ゼヴの旅行は、すべてマックスが手配し、費用も彼持ちである。駅には運転手が出迎え、ホテルは前払い、そして行先はマックスの指示により、ゼヴの復讐劇が始まる。
4人の旧ナチ戦犯「ルディ・コランダー」探しを始める。この中の1人がゼヴやマックスの家族を殺している。第1の「ルディ」を探し当てる。88歳の老人(ブルーノ・ガンツ/日本でも知名度を誇る数少ないドイツ人俳優、『ベルリン・天使の詩』〈1987年〉、『ヒトラー最後の2日間』〈05年〉などが代表作)はドイツ人であること、ナチスの兵士であることを素直に認めるが、アウシュヴィッツの虐殺は頑として認めない。
1人目の「ルディ」と対決する前に、ゼヴはマックスからの電話指示で、ピストルを購入する用意周到ぶりである。彼は認知症を自覚しており、店員にピストルの使い方を書いてもらう。ゼヴは認知症発症の合間を行きつ戻りつしている。
ピストルを突き付けられた第1の「ルディ」は、戦争中ロンメル将軍の指揮するアフリカ戦線での従軍の事実を語る。彼は人違いであった。
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マックス
(C)2014, Remember Productions Inc.
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次いで第2の「ルディ」をマックスの指示により探し出す。訪ねるケア施設で、第2の「ルディ」がベッドに横たわる。彼はほとんど死に体で息も絶え絶え、哀れさえ催す。彼は兵士でなく、ゼヴと同じく腕に刺青の番号を持つユダヤ人、しかもナチスが目の敵にして収容所へ送り込んだ同性愛者であった。この第2の「ルディ」も空振りとなる。
続いて、片田舎の一軒家を訪ねる。そこは留守で家の中のどう猛な犬の鳴き声がうるさい。郵便配達夫が玄関に置く小包の宛名は「コランダー」であり、ゼヴはようやく真犯人にたどり着いたとばかり、長い時間、玄関先で家人の帰りを待つ。
夕方、1人の警官が帰宅。疲れ果てた90歳の老人ゼヴを招き入れ、水を飲ます。生気を取り戻したゼヴは、男が第3の「ルディ」の息子であることを知る。息子はドイツ好きであった父の思い出を話し出す。多くの遺品や軍服、そして壁にはナチスのカギ十字の旗。
第3の「ルディ」は、ほぼ本物と特定しかかった時、息子はゼヴの腕の刺青を発見。好意的だった彼の態度が一変し、凶暴なシェパードを放つ。彼は反ユダヤ主義者で、ゼヴに殺意を持つ。ゼヴはとっさに、ピストルで犬と息子を射殺する。危機一髪であった。
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第3のルディの息子とゼヴ
(C)2014, Remember Productions Inc.
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またしてもマックスから指示が来る。今度は真犯人だ。訪ねる老人は90歳くらい、彼はゼヴに親愛の情を示し、互いの刺青を見せ合う。突如、ゼヴの認知症の霧が晴れ、いまわしい過去が蘇る。ここで信じられないような大ドンデンが起る。脚本家オーガストの渾身のアイデアである。
エゴヤン監督は、歴史的事実が与える影響で、心ならずも運命を変えざるをえない状況を想定している。本作では、それが復讐という形となるが、彼は超法規的措置でこの復讐は止むを得ないものとしている。危険な発想だが、認めざるを得ない。
(文中敬称略)
《了》
10月28日(金)TOHOシネマズシャンテ他全国ロードショー
映像新聞2016年10月24日掲載号より転載
中川洋吉・映画評論家
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