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『たかが世界の終わり』
カナダの若手天才監督の最新作
余命わずかな若き人気作家が帰郷

 カナダの天才監督グザビエ・ドランの新作『たかが世界の終わり』が公開される。本作は、昨年(2016年)「カンヌ国際映画祭コンペ部門」に出品され、グランプリ(第2席)を獲得。現在27歳のドラン監督は着実に大物監督への道を歩みだしている。今後の彼の方向性を占う意味でも重要な作品である。

 若手監督の快進撃は、とどまるところを知らない。19歳でカンヌ国際映画祭監督週間に『マイ・マザー』が迎えられ、その後、着々と実績を積み、本作は6作目。すべての作品が国際映画祭で認められ、若き巨匠と呼んでもよい存在となる。
カナダ唯一のフランス語圏、ケベック州モントリオール生まれで、日常的にフランス語を話し、現在までの6作はすべてフランス語である。このフランス語が、彼の作品に独自のテイストをもたらせている。 彼の作品の多くは家族をテーマとしている。このテーマは、文学と同様、現在の大きな流れであり、しかも永遠性がある。もし、映画のテーマの中から家族が欠落すれば、映画自身がひどく脆弱(ぜいじゃく)化することは疑いの余地がない。
  彼の作品の中で見られる顕著な傾向は、母親と息子の確執である。そこには憎しみ、対立があるが、それは愛情の裏返しでもある。5作目の『Mommy/マミー』(14年)は精神の病にまで踏み込んでおり、本作もそれに近い。



重ホームドラマ

 ジャンルから言えばホームドラマで、それはひどく重量感がある。日本映画で今村昌平監督作品を一言で言い表したく、苦し紛れに周囲の人間が重喜劇と定義するエピソードがある。そのひそみに倣い、ドラン作品は重ホームドラマと呼んでもよい。


フランス色

ルイ
(C)Shayne Laverdiere, Sons of Manual

 彼は、カナダ・モントリオールに生れ、その感性には独自性がある。フランス語を話し、フランス的教養の中で育ったはずだ。そのような経緯があり、本作はフランス人俳優で固められている。それも、ひどく達者な役者たちだ。



物語構成の妙

庭での食事
(C)Shayne Laverdiere, Sons of Manual

 話の進行は、料理の順番(コース料理の順)に沿い展開される。これなど、フランス的アイデアである。
食事の前である冒頭のシーン、薄暗いタクシー内の人物は野球帽を被り、顔の輪郭がはっきりしない。狙いの暗い画作りである。日曜の早朝に主人公ルイ(ギャスパー・ウリエル/代表作『サン・ローラン』〈14年〉)が空港に到着する。
一家の次男でもある彼は、若くして人気作家の地位を確立し、12年ぶりの帰郷だ。何らかの病気(作中では触れていない)によって余命わずかな身で、それを伝えるための家族との再会である。



久しぶりの我が家

兄夫婦
(C)Shayne Laverdiere, Sons of Manual

 12年ぶりの帰郷とあって、家族全員が待機する。兄アントワーヌ(ヴァンサン・カッセル/『ブラック・スワン』〈10年〉など)、その妻のカトリーヌ(マリオン・コティヤール/『エディット・ピアフ〜愛の賛歌〜』〈07年〉)、妹のシュザンヌ(レア・セドゥ/『アデル、ブルーは熱い色』〈13年〉)、そして、母親にはフランス映画界の大女優ナタリー・バイ(『緑色の部屋』〈1978年〉)が扮(ふん)する。



家族の顔ぶれ

妹シュザンヌ
(C)Shayne Laverdiere, Sons of Manual

  家族それぞれの感情が交錯
ルイを出迎える場面で、ドラン監督は一家を紹介してみせる。中心となるべきルイは物静かで、相手が話しかけても2,3語だけ発し、それ以上は口にせず、むしろ視線が会話にとって代わる。『たかが世界の終わり』は、饒舌(じょうぜつ)と視線が交差する作品であり、ドラン演出は徹底して彼に言葉を控えさせている。
視線を多用するルイは、何か悲しく、心ここにあらずの風情で、いつ、来るべき死について皆に伝えるか、タイミングを計っている。しかし、次から次に起こる家族の口論のため、伝える時がつかめず悶々とする。


嫁の気遣い

 まず、サロンで前菜を取る。ここで、ひと悶着が起きる。口論が日常茶飯事であるが、これが重要なコミュニケーション手段となり、家族が1つになっている。
弟に対し傍若無人な発言を繰り返す兄のアントワーヌに比べ、兄嫁のカトリーヌはオズオズとし家族の輪から外れるが、母や妹に比べおとなしい。なんとか座をもたせようと、一生懸命ルイに話しかける。話す内容は、主に自分たちの子供について。傍らのアントワーヌはイライラし通しで、会話を遮ろうとする。
ルイとカトリーヌのわずかな会話以外、2人が交わす視線で、ルイは彼女の真っ当さを感じ取る。彼にとり彼女は、この口論の絶えない家族の中では地獄に仏である。いわば互いに心を交せる存在である。



妹と母

母とルイ
(C)Shayne Laverdiere, Sons of Manual

 ルイにとって妹のシュザンヌは、幼いころに別れ、顔を合わせる機会がなく、人気作家の兄への一方的な彼女の憧景、兄はどのように向き合えばよいのか当惑気味だ。
シュザンヌの部屋を後にするルイは、洗面所で嘔吐(おうと)する。彼の病状が深刻な域にある証(あか)しである。そこへ携帯が鳴り、親しい友人と話す(どうも相手はルイのゲイの恋人)。このとき彼は、全く心の通じない気のいい妹との会話を、辛いものと告白する。
一方、母は彼を物置へ呼び出し、2人だけの会話を交す。母は、怒鳴りまくる兄の代わりに、なぜルイが家でイニシャティヴをとり、家族を束ねないのかと詰問する。そして、母は「あなたは皆に愛されていないし、理解されていないと思っているかも知れない」と、強烈な言葉を口にする。
ルイの心情を推し量り「私はあなたを愛している」と、母は自信を持って言葉をつなぐ。ここが作品のハイライトシーンであり、2人は抱き合うが、ルイは悲しい眼差しで、母の背越しの緑の庭を見詰める。この緑が家族の絆(きずな)の意味のメタファーと思える場面だ。


兄の弱み

 ここで庭での家族の正餐(せいさん)が始まる。しかし、母、兄、妹の口論は止まぬ。とても死について告白する雰囲気ではない。
帰郷以来、じっくり話す機会を持てない兄弟を、兄嫁カトリーヌは何とかしようと考える。そして兄弟2人が話し合えるように、車でたばこを買いに行かせる。車中、ルイが話し始めるが「それがなんだ」とけんか腰の兄。ここへきて、初めて兄のイライラの原因が見えてくる。
生まれ故郷を離れず、地域で工員をする兄は、結局のところ、家族に期待されない存在であり、弟と比較されることを嫌悪していることが、彼のルイに対する罵詈雑言(ばりぞうごん)から明らかになる。修復不能な溝であり、この役柄を兄のアントワーヌ役のヴァンサン・カッセルが、実に嫌味な人間を演じる。
救いようのない性格の悪さであり、ドラン監督は『Mommy/マミー』の中でADHD(多動性障害)の息子が嫌味な役割を果すところが、本作と共通する。破滅ギリギリの精神状況の凄さと、人間の変容を、ドラン監督は冷徹に見澄ましている。
この病的人間の兄、口論が絶えないほかの家族、その輪から外れる兄の妻、そして、死に行くルイと、人生の極端な状況にズカズカ足を踏み入れる様が、強烈でありながらも、やはり家族は存在するものとの確証を与える仕掛けとなっている。ドクのある話だが、好き嫌いで判断してはならぬ作品だ。
役者は多士済々で興味深い。ナタリー・バイの母の怪演ぶり、あの美女がここまでやるとは驚きである。また、主演のウリエルの視線は、ドラン監督の意図通り、人生のどうしようもない一面を強調する役作りであり、見応えがある。

 



(文中敬称略)

《了》

2月11日から新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町、
YEBISU GARDEN CINEMA他全国順次公開

映像新聞2017年1月30日掲載号より転載

 

 

 

中川洋吉・映画評論家