『静かなる情熱 エミリ・ディキンソン』
19世紀世界文学史上の天才女性詩人 没後に発見された膨大な作品 |
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岩波ホール(東京・神田神保町)において7月29日から上映される『静かなる情熱 エミリ・ディキンソン』(以下『エミリ』)は、信仰と愛を説き、人間の内面を見据える、最近では稀(まれ)にみる作品だ。エミリ・ディキンソン(1830−86年)は55歳の若さで病没。彼女の詩は、生存中は全く評価されず、死後20世紀に入ってから認められ、19世紀世界文学史上の天才詩人と謳(うた)われる。
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エミリ・ディキンソン
(C)A Quiet Passion Ltd/Hurricane Films 2016. All Rights Reserved
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筆者は、詩人としてのエミリ・ディキンソン(シンシア・ニクソン)の名は聞き覚えがあるが、恥ずかしながら詩作は全く未読であり、作品の中のテーマに絞り触れる。
エミリは19世紀に生まれ、地元の福音主義を校是とする名門女子校マウント・ホリヨーク女子専門学校に入学(米国最初の女子大学)。冒頭における大学の期末式(期末ごとのセレモニーのようだ)の模様から、彼女の信仰に向き合う姿勢がはっきり理解できる。
手法として、エピソードを積み重ね、最初からエミリの魂の在り方を示すあたり、監督・脚本のテレンス・ディヴィスの腕の冴(さ)えと格調の高さが見られる。並の器ではない。
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エミリと妹ヴィニー(右)
(C)A Quiet Passion Ltd/Hurricane Films 2016. All Rights Reserved
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信仰に向き合う姿勢を明確に描く
期末を前に先生は、神の道の選び方を学生たちに問う。20人ぐらいの女子学生の半分はキリスト教に救われたく思い、半分はいずれ救われたく思う未来派、そしてエミリ(実際は彼女と志を共にする学生が数人いたとされる)は、「神を信じたいが、自分自身、確信がもてない。罪の意識もない」と自己の意見を堂々と表明し、他と同調しない。ここに、彼女の信念の強さが見られる。
もちろん、先生はカンカンである。ここで彼女の反抗心が強く、従順でない一面が前面へと押し出される。
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父親とエミリ
(C)A Quiet Passion Ltd/Hurricane Films 2016. All Rights Reserved
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学校生活に嫌気がさしたエミリを待つかのように、家族が迎えに来る。彼女が一番大切に思う父親(キース・ギャラダイン)、兄(ダンカン・ダフ)、妹(ジェニファー・イーリー)の家族であり、病弱の母は家で待つ。
ディキンソン家は、マサチューセッツ州アマストに居を構え、父は弁護士、後に政治家となる名門家系であり、エミリは長女、次女のヴィニー、そして、兄のオースティンと、皆高い教養を身につけた上流階級人士である。
ここで描かれるディキンソン一家は、富を鼻にかける金持ちではなく、信心深く慎み深い。ここがエミリにとり最大の安住の場である。思いやりのある家族、広大な庭園と家、未婚のエミリは一生アマストにとどまり、早すぎる一生を終える。理詰めで訪問客を論破する彼女の最大の味方は、これまた独身の美しい妹、ヴィニーである。
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エミリ・ディキンソン
(C)A Quiet Passion Ltd/Hurricane Films 2016. All Rights Reserved
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帰宅するや、エミリは父親のエドワードに頼み、夜の3時から明け方までを詩作の時間としたい希望を述べる。もちろん彼は承諾。ついでに、彼と懇意の地元の新聞に自作を載せることを頼み、2つ返事で受け入れられ、最初の作品掲載が順調に運ぶ。詩人エミリの誕生である。しかし、その後が大変であった。
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エミリ(左)とウィリー
(C)A Quiet Passion Ltd/Hurricane Films 2016. All Rights Reserved
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詩作に勤(いそ)しむ彼女の第1回作品は父親の伝手もあり、新聞に掲載され、彼女を喜ばせるが、決して文壇入りの第一歩とはならない。掲載はされたが、編集長からは「女性は文学に向かない」という添え書きが付けられ、彼女を落胆させる。
19世紀の米国、あるいは世界的にも、文学の世界は男性の領域との風潮が根強く、どんなに女性が優秀で優れた感性を持っていても、彼女らは排除される。これはまさしく「ガラスの天井」である。しかも、この初掲載、署名入りではなく匿名での発表であった。
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知久の牧師(右)とエミリ
(C)A Quiet Passion Ltd/Hurricane Films 2016. All Rights Reserved
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排除されつつも、真夜中の詩作を続けるエミリ。生前は7編しか発表されず、ほとんど無名扱いの彼女だが、姉を擁護するヴィニーの尽力は計り知れない。1886年の没後、妹ヴィニーが彼女の机の引き出しから1800編の膨大な詩束を発見する。しかし、エミリが天才詩人として評価されるのは20世紀に入ってからである。
彼女自身は遅咲きの天才であるが、誰か引き上げる人がいなければ埋もれ、無名のままで終わる文学人、詩人がどれほどいたか想像に難くない。彼女の場合は、妹、そして家族が彼女を包み込み、詩人として遇したことが大きい。それ故か、ほとんど家の外へ出ず、彼女は生家以外の住居は考えられぬと公言している。
エミリには、ヴィニーから紹介される1人の友人バッファム(キャサリン・ベイリー)がいる。彼女は資産家の娘であり、周囲がぱっと明るくなるような性格で、物事を本音で語り、考え方も進歩的である。神に関しても、教会というお仕着せの宗教には批判的で、人々の魂の中に存在するとしており、エミリとは意気投合する。
売れない詩人、もっともエミリには無理をしてでも売る気はなく、無名で終わることを覚悟している。時に「多分、難しいだろうが、自分の詩が後世に残るようなことがあればもちろんうれしい」と述べ、「後世の名声は不遇だった者だけに与えられる」と、先を見越す発言をしている。さらにユーモアを交えて「成功の甘き香りに、一度はウンザリもしてみたい」と語る。これは冗談交じりの本音であろう。
学校では既に反抗児の烙印が押され、彼女をおもんばかる家族が救いの手を差し伸べる冒頭のエピソードは、彼女の家庭環境を知る上で重要だが、信仰の上で枠をはめられることを嫌うエミリは、その1点でバッファムと考えを同じくし親交を結び、2人の会話が興味深く、信仰の本質を突くものがある。
例えば、エミリが「内面の信仰心を外面と同一視するのは間違い。自分は神の庇護(ひご)からかけ離れている」と、信仰と自身の乖離(かいり)について語る。それに対しバッファムは「あなたほど、神に近い人間はいない。常に心の中を見ている」。そして、「反抗心を隠し、表向きは従順を装い、現実とは妥協せねば」と応える。親友の核心を衝く忠告である。
エミリの生きた時代の南北戦争(1861−65年)は、奴隷制廃止を求める北部に対し、南部が反対し起きた、一種の市民戦争である。
結果は、奴隷制廃止を唱えるリンカーン率いる北軍が勝利する。ディキンソン家も、長男オースティンの志願、跡継ぎを考える父親エドワードと大議論となり、オースティンは泣く泣く断念する。
また、兄はエミリと激論を交し、彼女の社会性がはっきりと浮かび上る。兄は「男は世に出ないといけない」、彼女は「では女は」と切り返す。これは激論より、存在を賭けた魂の叫びと受け取れる。
ここに、彼女の南北戦争に対する一編の詩(英文学者新倉俊一の解説)を紹介する。《声高く戦うのは勇ましい/だが悲痛の騎兵隊を/胸に秘めるひとは/もっと勇ましい》
彼女は、女権が否定される時代と、20世紀の女権拡大のはざまで、もがき苦しみぬいた女性といえる。
世に受け入れられない思想(フェミニズム)、信仰に対し、一個人として詩作で、物事の本質を書き綴り通したのが、エミリ・ディキンソンである。
本作、本年の見るべき1作だ。
(文中敬称略)
《了》
7月29日より岩波ホールほか全国順次ロードショー
映像新聞2017年7月24日掲載号より転載
中川洋吉・映画評論家
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