『ビール・ストリートの恋人たち』
民権運動家である作家の小説が原作
若い黒人カップルの苦難 |
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黒人映画とも言うべき、ラブ・ストーリー『ビール・ストリートの恋人たち』(2018年、米国/119分)が公開される。アカデミー作品賞受賞の『ムーン・ライト』(16年)のバリー・ジェンキンス監督の最新作である。一応、ラブ・ストーリーの範ちゅうに入るが、内容的には黒人が持つ白人観が本音として語られる、米国社会の分断の真実に迫る作品である。
原作は、米国の民権運動家でもある黒人作家ジェイムズ・ボールドウィン(1924−81年)の同名小説『ビール・ストリートの恋人たち』(74年)で、日本では新訳が1月に刊行(早川書房)された。彼は、50年代から60年代の黒人の公民権運動に熱心に携わったことでも知られる。
2009年−10年ごろにジェンキンス監督がこの作品を目にし、13年に脚本化し、映画化に備えた。当然ながら、作家ボールドウィンは黒人民権運動の洗礼を受けていた。ジェンキンス監督は、作家ボールドウィンの熱狂的な読者で全作品を読んでいたが、『ビール・ストリートの恋人たち』だけが未読であったという。
タイトルの「ビール・ストリート」とは、ジャズの街として知られるニューオーリンズの繁華街にある通りの名称。ボールドウィンは、ビール・ストリートを米国における黒人の魂の故郷として、象徴的に使っている。
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ファニー(左)とティッシュ(右) (C)2018 ANNAPURNA PICTURES, LLC. All Rights Reserved. ※以下同様
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警官と悶着を起す若い2人
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母シャロンのプエルトリコ行き
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親友ダニエル(右)を夕食に招待
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仲間の1人、イタリアン・レストランのボーイ
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夕食gの2人とボーイ
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妊娠を喜ぶティッシュ(左)
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ティッシュの母、シャロン
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大手デパートで働くティッシュ
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仲睦まじい2人
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舞台は、ボールドウィンの文章と街に敬意を表するために、ニューヨークのハーレムを選んだ。黒人たちが生きる地域としてハーレムが一番適合していたのであろう。時代は1970年代。ここに生きる2人の若い男女の厳しい境遇と、当時の社会状況が原作とぴったり重なり合っている。
主人公は、22歳のファニー(ステファン・ジェームズ)。彼は失業者に近い状況で、いろいろな職業を転々とし、やっと自身の天職たる彫刻にたどり着く。しかし、芸術で食うまでには程遠い。
ファニーの恋人は、幼なじみのティッシュ(キキ・レイン)で19歳。2人は幼いころ一緒に風呂に入り、バチャバシャと泡を立てて遊んだ間柄。周囲も、いずれは結婚すると見守っていた。彼らは生まれながらのカップルなのだ。
ファニーは生真面目な性格で、いわば兄貴格。ティッシュはまだ幼さが残る初々しいハイティーンであり、作品のチャーミング・ポイントとして彼女の存在はまぶしい。もちろん彼らは黒人の若者である。
米国社会の分断の真実に迫る
白人警官が平然と黒人を射殺する光景は、テレビでたびたび目にする。あのお国の法律を眼光紙背に徹すれば、黒人殺しは白人の権利と明記されているような気がする。
この分断化が、主人公ファニーにも起き、若いカップルの別離へとつながる。彼は、プエルトリコ女性へのレイプ事件の犯人として逮捕、収監される。全く身に覚えのない罪である。
この逮捕劇から、ファニーとティッシュは刑務所のガラス窓越しの面会室での顔合わせとなる。
プエルトリコ人の主婦は玄関先でレイプされる。警察は、かねてから目を付けていたファニーを引っ張る。拙稿『眠る村』(本紙1月28日号掲載)のように「人間、誰しも叩けばほこりが出る」を地でいく例だ。
逮捕前のある時、ケーキ屋でティッシュが若い白人男性に絡まれ、ファニーが間に入り男性を叩きのめす。それを見ていた白人警官は、ファニーを暴行現行犯で逮捕しようとする。
そこにケーキ屋のイタリア人の女主人が「うちのお客に何をする」と猛烈に抗議。決まりが悪くなった白人警官は「次があるからな」と捨て台詞(ぜりふ)を残し退散。その彼の恨みでファニーはレイプ犯に仕立て上げられる。
ファニーを捕まえた後、警察側は悪賢い手を使う。まずアリバイを証明できるファニーの親友ダニエル(ブライアン・タイリー・ヘンリー)を拘束、そして、被害者であるプエルトリコ出身のロジャース夫人(彼女もマイノリティ)を帰国させ、アリバイの隠ぺい工作を図り、事を有利に運ぼうとする。
逮捕前のファニーは、ダニエルと街で久しぶりに会い、「食事でも」と自宅に招き、ティッシュの手料理を振る舞う。3カ月前に、自動車泥棒とマリファナ所持で刑務所にぶちこまれた彼のひと言が、現在の米国の分断を象徴している。いつも陽気な彼はこの時ばかりは「白人は黒人を毛嫌いしている」と口にする。
黒人全体が持つ、社会的不平等感と受け取れる一語であり、米国自体が分断されていることへの実感である。
はっきり言えば、黒人は2等国民扱いされているのが現状ではなかろうか。彼らは、マイノリティではあるが、この階層の連帯感が作品に挟み込まれ、物語の展開の潤滑油として見る側をほっとさせる。
ユダヤ人家主の好意、警官に引っ張られそうな時に助けたケーキ屋のイタリア系女主人の弁護、そして、いつもツケで2人を食べさせるラテン系の食堂ウェイターなどである。
若い2人の間の愛の結晶をティッシュが宿すが、ファニーは刑務所入り。面会室のガラス越しで妊娠の報告をする。子供を授かる喜びいっぱいのティッシュと、うれしさ半ばではあるが今後を心配するファニーは、今1つ心から喜べない。
ティッシュの母シャロン(レジーナ・キング)は、仲間たちからかき集めたわずかな金で、とりあえずプエルトリコへ飛び、ロジャース夫人と会う段取りをする。
しかし、白人の夫に捨てられ、子供も奪われた彼女は、精神に異常をきたし、米国の法廷で証言ができる状態ではなく、シャロンのわずかの望みは立ち消えとなる。
ティッシュは、歩けるようになった息子を連れ、ファニーに会いに行く。もちろん大きくなった息子の顔を見て彼は大喜び。しかし、両親は状況の悪さを知らないはずはない。それでも、3人で食卓を囲む夢を息子に話し掛ける。
悲劇だが、黒人独特の陽気さとマイノリティの連帯で、ファニーとティッシュは生きねばならぬ一念で、悪い状況に静かに立ち向かう。
本作、若い仲睦まじい2人の真心と変わらぬ愛が全編を貫く。刑務所の面会室と、在りし日の幸せな2人のフラッシュバックで物語は進行する。
その一方、民権運動活動家の原作者ボールドウィンの米国社会のつかみ方は現代に通じ、今もって解決されない分断の事実を明らかにしている。ニューヨーク・ハーレム地区の、逆境にありながら、黒人たちのささやかな幸せが心にしみる1作である。
ラストのタイトルバックで流れる歌の一節「自由よ、響きわたれ」が、作り手の思いを象徴している。
(文中敬称略)
《了》
2019年2月22からTOHOシネマズ シャンテ他全国公開
映像新聞2019年2月18日掲載号より転載
中川洋吉・映画評論家
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