このサイトからダウンロードできる
PDFデータの閲覧のために必用なAcrobatReaderは以下のリンクより
無償でダウンロードできます。



このサイトからダウンロードできる
PDFデータの閲覧のために必用なAcrobatReaderは以下のリンクより
無償でダウンロードできます。



『氷上の王、ジョン・カリー』
伝説のアイススケート名選手の一生
数々の実写映像や証言で構成

 アイススケートにおける伝説の名選手、ジョン・カリー(1949−94年)をご存知の方は多くないはずだ。彼は、競技としてのアイススケートを芸術の域まで高めた天才スケーターとして名を残し、「スケート界のヌレエフ」と評された。そのカリーのドキュメンタリー『氷上の王、ジョン・カリー』(2018年/ジェイムス・エルスキン監督、英国製作、89分)がいよいよ公開される。

  ジョン・カリーが活躍した時代、わが国におけるアイススケートは、プロ野球ほど関心度は高くなかった。当時トップスケーターで、後に名コーチとして有名な佐藤信夫が、現役時代のカリーを実際に目にしている。しかし、カリーの名はマスコミではほとんど取り上げられなかった。 ジョン・カリー(以下ジョン)は、1970年ごろから全英選手権を5回獲得、76年にはインスブルック冬季五輪の金メダリストとなり、世界的に知られる存在となった。ジョンは英国バーミンガム生まれの生粋の英国人。幼い時からスケートの才能を見せ、周囲を驚かせた。
この、ジョンの一生を綴るドキュメンタリー『氷上の王、ジョン・カリー』は、現存する関係者や友人の証言により構成されている。さらに、素晴らしいことは、当時の実写フィルムが挿入され、それらの映像によってジョンの人柄が生の感動として伝わる。新たに発掘された珍しい実写からは、彼の芸術的なスケート演技も目にすることができる。

演目「スパルタカス」 
(C)New Black Films Skating Limited 2018  (C)Dogwoof 2018 ※以下同様

演目「トリオ」

ニューヨークのジョン・カリー

少年時代のジョン・カリー

演目「ウィリアム・テル序曲」

演目「カルメン」

妊婦ノヴィ 

ジョンの出発点

 ジョンはアーチストになることを夢見て、その手段としてアスリート(スケーター)になる決心が、彼を知る上での出発点となる。彼にとり、そのことは社会に受け入れてもらうことである。具体的には、オリンピックでの金メダルの獲得、メトロポリタン歌劇場で2万人の観客を動員するといったアイスショーの開催である。
本作は数々の栄光の後ろ側にある孤独な愛への渇望、病魔に対する不安をインタビューで明らかにする。  
  


ジョンの少年時代

 もともと、バレエに傾倒していたジョンは、父親にその希望を伝える。しかし当時、バレエは「男のスポーツ」ではないと、厳格な父親から許されなかった。ただし、「スケートはスポーツだから」との理由で許可され、7歳の時にレッスンを始める。
一家は父親の死後、バーミンガムからロンドンに居を移す。そこでジョンは天才少年振りを発揮する。



英国を後にするジョン

 
閉塞的なロンドンでのスケート人生。ジョンは、突然ニューヨークを訪れる。スケート靴だけを携えての新しい出発である。
当時の実写フィルムでの若き日のジョンは、気さくな普通の青年で、気軽に声がかけられる様子が見て取れる。しかし、当時のスケート界はプロ化しておらず、経済的に生活が苦しく、さらに、型の決まったアイススケートと、彼の志向するバレエとの間で悶々(もんもん)とした日々を送る。



男性が好きな少年

 ジョンは、幼少のころから女性には関心が持てず、自ずとゲイの世界へと踏み込む。1970年代は、同性愛者に対して社会のタブー視が一般的であり、差別される存在であった。
後に自分のアイス・カンパニーで振り付けも担当するが、女性、特に太めの女性には厳しい一面があった。この辺りを見ても、女性を男性が支えるクラシックなアイススケートに違和感を持っていたと想像でき、彼は栄光を得ても、同性愛者への差別には終生苦しんだ。
そして、ジョンはゲイの世界に入り、安らぎを見出す。インスブルック・オリンピックで金メダルを獲得した後に、自身がゲイであることを告白している。
ゲイのディスコでの映像が流れるが、大の男性たちが上半身裸で踊る様は、どこかナヨナヨして、おかしみがこみ上げてくる。



カンパニーの結成

 アマチュア時代に、オリンピックや世界選手権で数々の金メダルを手にしたジョンは、いよいよプロになり、アイス・カンパニーを立ち上げ、自分の考えるアイススケートを実践に移す。世界中でアイスショーを開催し、革新的プログラムで世界を沸かせた。
彼の新しい試みは多くのファンに受け入れられ、ロンドン・アルバート・ホール、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場でも催された。格式の高い両ホールとも、床に配管し氷を敷く特別仕様で、スケートを芸術の域まで高め、バレエのような滑りを披露した。



演目

 彼のカンパニー公演の実写フィルムが、しばしば写し出される。それは、うまいスケートというよりは、全くコンセプトの違う振り付けであり、それまでにないスケートとバレエとの融合であった。
例えば、演目の1つである『バーン』では、真っ白な衣装のジョンが、リンクいっぱいを低い姿勢を保ちながら滑る場面がある。そして、10人位の赤い衣裳のスケーターの間をジョンが駆け抜ける。シンプルの極限に迫る演技であり、その流動感に観客の目は釘付けとなる。スケーターと振り付けの混然一体感が、熱い高揚感をもたらす。
本作のラストは『青き美しきドナウ』。ブルーの衣裳の4人のスケーターの幾何学的動きで見せる振り付けで、ヨハン・シュトラウスのウィンナ・ワルツ(1867年作曲)に新しい命が吹き込まれている。スケートを越え、バレエへと形を変えた氷上の舞いだ。




ジョンの苦悩

 栄光の裏にある孤独な愛への渇望
ゲイのジョンは、1991年にエイズを発症。今でこそ、新薬のおかげでエイズによって死ぬ人は少なくなっているが、当時は死の病といわれるほど、多くの死者を出した。そして、彼は94年に44歳の若さで死去した。
病気以外に、彼はカンパニーの維持にも経済的に苦しみ、その苦難の中にあっても彼のパフォーマンスは衰えることなく輝いた。だが彼は、ショーの成功にもかかわらず、さらなる高みを目指し、常に不満を募らせた。
一方、長年のスケーター生活で体が悲鳴を上げ、引退を考えるようになった。そしてエイズとの闘いが、彼を一層窮地に立たせた。ジョンの一生は、生き急ぎの感は当然あるが、冷静に眺めれば、やることはすべて成し遂げた生涯ともいえる。
従来のスケートの概念を取り払い、よりバレエ的な、自由な身体活動へと置き換えたことが、ジョン・カリーの功績である。また、同性愛者への差別やエイズとの闘いと、困難な状況の中を生きた彼の存在をよみがえらせたのが、本作『氷上の王、ジョン・カリー』と言ってよい。
豊富で貴重な映像資料、そして周囲の人々の証言で、彼は生前と同様、今一度、姿を現すことに成功した。作品自体、良く調べ上げたドキュメンタリーといえる。ドキュメンタリーの役割の1つは、今まで知らぬことを知らしめることにあり、まさに本作は、その定石を踏んでいる。
構成として、インスブルックでの金メダル獲得の1976年を境とし、その後のアイス・カンパニー創立との2部となり、作品自体を引き締めている。また、数々の実写映像や証言は、作品にリズム感をもたらし、見る者を飽きさせない。





(文中敬称略)

《了》

5月31日から新宿ピカデリー、東劇、アップリンク渋谷、アップリンク吉祥寺ほか、
全国順次公開

 

中川洋吉・映画評論家