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『長いお別れ』
記憶を失っていく父と家族たちの愛
見えてくる老人介護の実情

 現代社会において避けて通れないものの1つに老人問題があり、それを取り上げたのが『長いお別れ』(中野量太監督、127分)だ。近年、非常に注目され、厄介な問題として社会化している認知症について触れる作品であり、その病気の在り方や、その対処の仕方について考えさせられる。タイトルの『長いお別れ』は、英語では「Long Good bye」である。

 冒頭、遊園地のメリーゴーランドが音楽に合わせ回転する。そこに1人の幼女が乗せろと粘って、係員を困らせている。規則によれば、一定年齢以下の子供は親の付き添いがなければ乗れない。渋々諦める少女。この出だし、後の伏線となる。

家族全員 
(C)2019『長いお別れ』製作委員会 (C)中島京子/文藝春秋 ※以下同様

誕生祝い

母と娘2人

病室でスカイプを見る3人

徘徊後の河原で

長女麻里とその夫新(米国で)

父親と芙美 

昔のアルバムを見る母親と長女 

東(ひがし)家の面々

 時代は1970年。東京の郊外の一軒家で、主婦の曜子(松原千恵子)が電話で話している。夫、昇平(山崎務)の70歳の誕生祝いに、娘2人を呼び出すための連絡だ。
近所に次女の芙美(蒼井優)が住み、姉の麻里(竹内結子)は、夫の仕事の都合で米国暮し。娘2人は突然の電話に驚き、何を今更誕生会と真意を疑いながら、やれやれとの風情で実家に駆け付ける。特に現在米国住まいの麻里は、息子の崇を伴っての帰国だ。実は、母親の電話の真意は、進行する父の認知症の相談であった。
麻里は憧れの外国暮しではあるが、異国の生活になじめない様子。芙美は利発な性格で、将来、カフェ開設の希望を持っている。この彼女、今はスーパーの野菜担当で、後に移動ワゴン車の有機カレー販売を始めるが、都心ではないため客足もまばらである。
母親の曜子は、ご亭主大事な専業主婦。一家の主人、昇平は元中学校校長で半年前から認知症を患っている。堅物で勤言実直な彼は、一日中、気難しい顔をして読書に専念しているものの、時折、本の上下が逆さになり、本当に読書をしているのか怪しい。
昔は国語教師だったのだろうか、漢字には非常に詳しく、孫の崇がご機嫌取りで質問をすると、ニコニコ顔で教えてやるほどだ。しかし、人の顔は思い出さず、食べ物の好き嫌いは激しく、妻を手こずらせている。そして、極まり文句は「帰りたい」だ。しかし、家族一同、彼がどこへ帰りたいのかさっぱり分からない。
麻里は英語がよく分からず、夫は仕事人間で、家の中のコミュニケーションも欠けがち。息子は段々と生意気になり、麻里をイラつかせる。憧れの駐在員の奥様のはずが、目算狂い。
芙美は行動的で、将来の計画もあるが、父親の認知症で先行きが怪しくなり始める。母親はお父さん大事でオロオロ、父親の徘徊回数も最近めっきり増える。家族全員が、生活の中心を失いつつある。  
  


葬式

 ある日、昇平の旧友の葬式がある。亡くなった友人が誰なのかさっぱり思い出せぬまま、芙美に連れられお寺へ行く。何が何だか分からぬまま喪服を着せられ、不機嫌な面持ちで座る昇平。そこへ、中学時代の柔道部の親友が「やあ、久し振り」と懐かし気に語り掛ける。
昔の柔道部の話を一生懸命する友人は、昇平に弔辞を託す。しかし、彼にとり、全く思い出せない故人の弔辞は無理で、付き添いの芙美は恥ずかしさと、父の認知症で身が縮む思い。その場の芙美の表情が、誠にサマになっている。若くしてこの芝居を演じられる蒼井優の力量が光る。



ボケとボケの間

 
ひどい認知症の症状を見せる一方、老人教室では、お得意の漢字を教えたり、歌の指導をしたりと、すこぶるご機嫌の昇平。この落差の大きさに周囲は悩まされる。
認知症でも一時的に正常な記憶を取り戻す時があり、これを「まだらボケ」と呼ぶようだ。



打ち続く徘徊騒動

 ある時、昇平はお得意の「帰る」という台詞(せりふ)を残し、行方不明になる。家族は大慌てで、手分けし彼を探す。彼は川辺で米国帰りの孫の崇と、芙美の中学時代の同級生である道彦と一緒に談笑している。この同級生が昇平を見付けてくれたのだ。
今は移動ワゴン車で有機カレー販売をしている芙美は、のんびりと並んで座っている3人を見て、安心したり気抜けしたりと、気の休まる間がない。
さらに昇平は、芙美のワゴンの前に、川辺を散歩する人を一列に並ばせ、販売の手伝いまでする。認知症独特の"陽"の部分も、作り手の描かんとするところであろう。この病、どうも付き合い方があるようだ。



記憶のよみがえり

 いつも気難しい昇平だが、彼が帰りたがっていた生家へ妻の曜子と出かける。しかし、彼自身は全く思い出せない。
帰りの列車の中で昇平は、1964年開催の東京オリンピック時にプロポーズした思い出を語り始める。これほどプロポーズのことを覚えているとは、呆気(あっけ)にとられる曜子。とにかく落差が激しい。家族皆が彼に振り回される深刻な状況と、その合間に見せるハレの日の思い出―。
原作者、中島京子の実体験がベースとなっている。仕事を持つ女性が、働きながら老親の面倒を見、最後は親を老人ホームへ入れる実例を筆者もいくつか目にしており、これが実情と思われる。しかし、本作では、老人ホーム入所前までの物語にとどめている。



それぞれの家族

 ある日、昇平はまたもや徘徊し、家族を慌てさせるが、今回はGPS携帯を頼りに、彼の所在を簡単に割り出す。
彼はメリーゴーランドの木馬に乗り、ご機嫌の様子。傍らには2人の少女が居る。そこに冒頭の遊園地場面が再現され、3本の傘が目に入る。迎えの曜子はそれを見て、雨模様の時、傘を持ち迎えに来た在りし日の、夫の元気な姿を思い出す。
気難しい彼だが、孫の崇や子供と接する時に、一瞬ニコニコと笑顔を見せる。




妻の入院

 女性の負担の大きさを暗に指摘
曜子が網膜剥離で入院、手術、その上、昇平が足を骨折し、妻と同じ病院に入院する。2人の病人を抱える家族は、昇平の老人ホーム送りが頭にちらりと浮かぶ。
芙美は、在米国の姉に代わり、自分が面倒を見ることを申し出る。その志は良しとせねばならぬが、昇平がお漏らしをし、彼女が面倒をみる。そこで、芙美は介護の現実の一端に否応なく直面する。内心たじろぐ芙美、しかし、意地と侠気(きょうぎ)で昇平を受け入れる。
ここで見えてくるのは、わが国における看護の実情である。認知症をはじめとする高齢者介護は、当初は家族で対処し、その後、施設に入れるのが一般的である。しかし、その介護のほとんどが女性の負担であることが問題である。必然的に女性を家に閉じ込め、社会へ出て働く意思を持つ彼女らを疎外している現状に対する、作り手の隠れた指摘と受け止められる。つまり、作者(原作者、監督)は、暗に制度としての老人問題の充実を提案していることが、本作から読み取れる。
われわれ国民、そして、お上が考えねばならぬ問題だ。含蓄(がんちく)に富む1作である。





(文中敬称略)

《了》

5月31日から全国ロードショー

映像新聞2019年5月27日掲載号より転載

中川洋吉・映画評論家