『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』
沖縄基地反対を唱えた政治家の生き様
当時の首相と国会で論戦も |
|
2017年公開の映画『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名はカメジロー』(本紙17年8月28日号掲載)の続編というべき『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』(19年)が沖縄を皮切りに全国で上映される。沖縄基地反対を唱えた不屈の政治家、生粋の沖縄人、瀬長亀次郎の生涯を描く作品である。沖縄人の魂に火を灯し続けた人物は、県民から敬愛され「カメジロー」と呼ばれた。
冒頭、俯瞰(ふかん)撮影で青い海と緑の陸地が写し出され、真ん中に白い道が1本、真っ直ぐに伸びている。この白い道こそ「カメジロー」の思いである。
|
瀬長亀次郎 (C)TBSテレビ ※以下同様
|
|
国会での論戦
|
|
沖縄人の心の象徴ガジュマル
|
|
白い道
|
|
「平和の礎」
|
|
若き日の「カメジロー」
|
|
「カメジロー」の次女、千尋
|
|
米軍基地の中の自分の土地を眺める地主
|
|
主婦轢き殺し事件で怒った民衆が米軍車両に火をつける
|
|
毒、爆発物を運搬する米軍トラック
|
|
孫と遊ぶ「カメジロー」
|
|
立法議員選挙当選を喜ぶ
|
彼は、230冊に及ぶノートを遺していた。次女の千尋は、この父の日記に「沖縄の戦後史」が詰まっていると語っている。その上、家族の歩み、「カメジロー」の本音など、前作では盛り込まれなかった彼の人間像が明らかにされている。この日記と取り組む、佐古忠彦監督の作品に対する尽きぬ情熱に感服する。
前作は、沖縄、桜坂劇場で2017年8月12日から18年8月17日まで、53週間連続上映された。テレビ・ドキュメンタリーの映画化で、これだけ長く上映されることは珍しい。
そして、各地の小さな映画館上映で7万人の観客を動員している。これらの数字を見れば、前作がいかに多くの人々の心に届いたかが分かる。
人々の声を代表し島の平和訴える
「カメジロー」は1907年生まれで、2001年に94歳で逝去している。沖縄は米軍による1949年の分離統治が27年間続いた。本土に復帰した72年の後は、米軍基地の島となり現在に至る。
彼を語る上で欠かせない、前作で紹介された1枚の貴重な写真がある。52年、米国統治下での立法議員選挙で最高得票数で当選し、米国を大いに慌てさせた。写真は、この当選時の琉球政府創立式典における宣誓拒否の1枚で、1人だけが着席している。それが「カメジロー」である。
彼は、基地反対のための立法院入りであり、ほかの議員同様、同調圧力に乗る訳にはいかなかった。本土復帰前も後もブレずに、沖縄の基地反対の意志を貫き、それらを多くの民衆の前で語った。小柄だが、精悍(せいかん)な面構えの彼の演説は熱気にあふれ、多くの人々を感動させた。言論こそ、彼の最大の武器なのだ。
演説会でも、時に10万人を動員しており、彼の主張に感銘する者は数え切れなかった。彼こそ、沖縄の希望の星と呼べる人物である。
彼が米軍に与えた最大の衝撃は、米軍統治下での那覇市長当選である。米軍にとり「マサカ、マサカ」の事態で、想定外の出来事と考えられる。立法院での宣誓拒否、そして市長当選。東京の中学生だった筆者でも、沖縄の出来事には目を見張った覚えがある。
そこで手をこまねく米軍ではない。まず銀行を閉鎖、すなわち、経済活動の血液の凍結、占領した土地の一括払いの要求の拒否。一括払いとなれば、自分たちの土地が永久に戻らない恐れがあるためだ。
困窮の市政に対し、市民の納税意識が向上。従来の納税率77%が97%に跳ね上がり、市政を援護した。
前作では触れなかった、家庭人としての彼の姿がより詳しく語られる。
父親は出稼ぎのハワイ移民で、政治に没頭する息子に対し「アカの手先はわが家の恥」とばかり、25円を添えて絶縁状を送り付け、彼を悩ます。母は息子の味方で、「ムシロのアヤのように真直ぐ生きよ」とするのが教育方針であった。
妻は終始、夫に寄り添い、娘、千尋は随伴者の役割を務める。しかし、幼い孫は、当時、はしりのテレビをねだり、高い物は買えない「カメジロー」は大弱り、彼自身、貧乏な支持者たちの相談に乗り、人々のために生きることを旨とする人物なのだ。
しかし、公の場では、あの暑い沖縄でも、常に背広にネクタイを着用。そこに、民衆の代表としての彼の誇りがうかがい知れる。
また、「ジャンバルジャンとコゼット」のエピソートが面白い。沖縄から退去命令を受けた人民党員をかくまった容疑により収監中の那覇刑務所で暴動が起こり、弾圧する側の警察は「カメジロー」に仲介を依頼する。彼は敵側にも信頼されていた。頼まれた時、彼はヴィクトル・ユーゴーの『ああ無情』を読んでおり、ちょうど「ジャンバルジャンと里子のコゼット」の出会いの場であった。
この時、娘の千尋が刑務所内の父の存在を確かめるため、支持者の青年の肩を借り、塀を乗り越えようとした。ここで「カメジロー」は、コゼットを背負い塀に上る自身の姿を想像したのであった。
1947年に「カメジロー」は、沖縄人民党を結成(後に日本共産党と合流)、日本復帰運動の拠点を作る。この間、米軍統治下の市長選に当選、立法議員選挙にも当選するが、このころから米軍ににらまれる存在となる。
そして、復帰(1972年)前に、沖縄全体を揺るがす事件が起きる。1967年には教職員の政治活動を制限する「地方教育区公務員法」、「教育公務員特例法」が立法院に勧告される。本土復帰推進の要である教職員会は、教公二法阻止運動で2万人を動員し、議会前に集結、反対の意志を強く示した。結局、同法は廃案となる。
次いで、その3年後はコザ(現沖縄市)において、米軍人による交通事故で日本人男性がケガをし、見物人たちが騒いだため、MP(米軍憲兵)が出動することとなった。
この事故と前後し、米兵の酔っぱらい運転による主婦ひき殺し事件が発生。怒った民衆が次々と米軍車両に火をつけ大騒動となり、武装MP300人、群衆7000人がにらみ合い、騒動は朝まで続いた。
これら2つの出来事を契機とし、米軍の対応に変化が見られた。
暴力のぶつかり合いの限界を悟り、米国は明らかにそれまでの方針の転換を図った。基地確保第一主義である。
米軍は直接統治による沖縄維持の代わりに、面倒は日本政府に任せ、基地の維持に専念する。逆に言えば、基地だけは未来永劫(えいごう)日本には戻らない可能性である。
作品のハイライトは、1971年の沖縄の施政権返還を巡る衆院沖特委での佐藤首相との対決である。
「カメジロー」はまず、戦没者の遺骨の扱い方のぞんざいさに触れる。最初はくつの中の足を丁寧に取り出し、鉄かぶとを被ったままの頭を取り出し埋葬した。しかし、以前との違いを生き残りの人々の立場に立ち痛烈に口撃する。
「平和なはずの島に基地も核もある現実をどう思うか」と、切々と佐藤首相に説く「カメジロー」の真摯な発言に対し、佐藤首相は終始押され気味。そして、沖縄には基地も核も存在する現在までの島の現実の在り方を訴え、人々は熱く彼の演説を支持した。
なぜ、基地のない沖縄を求めるかを、日米間で結ばれた沖縄返還協定への疑問と共に佐藤首相にぶつけた。基地のない沖縄、米軍のいない沖縄こそが、平和な島の願いであった。「カメジロー」は沖縄の声を代表し、島民は多大な感銘を受けた。
しかし、本土復帰47年後の現在も「基地の島」沖縄は存在し続けている。
(文中敬称略)
《了》
8月17日より沖縄・桜坂劇場先行公開
8月24日より東京・ユーロスペース他全国公開
映像新聞2019年8月12日掲載号より転載
中川洋吉・映画評論家
|