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『おしえて!ドクター・ルース』
米国で最も著名なセックス・セラピスト
90歳超えた老婦人が悩み解決
人々の意識を変えた性の開拓者

 『おしえて! ドクター・ルース』(2019年、一部アニメーション/ライアン・ホワイト監督、米国、100分、原題『ASK DR. RUTH』)は、90歳を超えた老婦人が性について語るドキュメンタリーだ。1人のセックス・セラピスト、ドクター・ルースの性についての見識の伝授である。老齢の彼女の性に対する明快な回答は、正しい性を求める人々の間に受け入れられている。

 
ドクター・ルースの功績は、男性間の、ちょっと暗めで秘密めいたわい談や、アケスケなガールズトークとは一線を画している。分かりやすく言えば、「明るい性」である。実際、性に関する正しい知識がきちんと伝えられているのであろうか、という疑問がわく。そのためセックス・セラピストが必要とされ、米国の大学では、学問として1つの講座となっている。

収録中のドクター・ルース

誕生祝い

大学の講義

ラジオ出演

子供たちと

スイス再訪

孫たちと

ニューヨークで

会合への出席

最愛の夫 フレッド(右)

セラピ中のドクター・ルース

ホロコースト記念館で

ダンスに興じるドクター・ルース

彼女の人柄

 ドクター・ルースは、身長が140abと、米国社会では稀(まれ)な背の低さで、まるで中学生の様である。この小ささがカワイイことは言うまでもない。その上、ニコニコの笑顔、人は彼女のことを悪い人とは思わないであろう。
この小柄で笑みいっぱいの彼女が、ズバズバと性について語るのである。大変な売れっ子のセラピストだが、自ら語るように、自身が長身の美人だったら、これほど世間からもてはやされることはなかっただろうと、率直に明かしている。彼女の容貌は人々に信頼を与えている。得な人柄である。  
  


ホロコースト孤児

 彼女は1928年、ドイツ・フランクフルトに生まれる。本名はカローラ・ルース・シーゲルだが、後に避難先のスイスにおいて、ドイツ風の「カローラ」はイジメに遭う危険があり、周囲の配慮で「ルース」を一生名乗ることとなる。
両親は正統派ユダヤ教徒で、ナチスのユダヤ人狩りを恐れ、平和・中立の評判の高いスイスの養護施設に娘1人だけを疎開させた。そこでルースは、子供にもかかわらず子供たちの世話をさせられた。



施設生活と初恋

 
彼女を知る上で、ルースがホロコースト孤児であることを頭に入れておく必要がある。両親は、ナチスの手からユダヤ人の愛娘を守るため、スイスの養護施設に送り込む。彼女が10歳の時に父はナチスに連行され、次いでホロコーストにより両親や祖母、親戚を失い、孤児となる。そして、17歳の時に新天地イスラエルに向かう。
第二次世界大戦終了後、多くのユダヤ人は祖国建設のため、イスラエルへ渡った。そこでルースは、20歳を過ぎた時に最初の結婚をしている。夫は医者志望で、パリに移住するもののイスラエルに戻りたがり、彼女はパリ大学ソルボンヌ校での学業を希望、そのため2人は別れることとなる。
ルースはもともと米国移住希望であり、ホロコーストで教育を断念した者に1500jの賠償金が支払われることを知り、米国行きを決意。そして2度目の結婚をし、長女ミリアムを授かる。この娘が画面にしばしば登場し、母について興味深い証言をする。
結局、彼女は2番目の夫とも離婚。3番目の夫フレッドと結ばれる。2人は仲が良く、1997年の夫の死までほぼ40年にわたり、苦楽を共にした。



学問の道

 ルースは、米国で最も著名なセックス・セラピスト、健全な性教育の推進者で、多くの信奉者を生み出した。
ドイツを出てから、パリ大学、そして、コロンビア大学、コーネル大学で心理学、社会学、ヒューマン・セクシュアリティを本格的に研究し、1981年にセックス・セラピストとして開業する。
当時は、大変珍しい存在であったことが想像できる。91歳の現在も彼女は、講演やメディア出演にと、全米で活躍中だ。



当時の社会的反応

 彼女がセラピストとして活動をし始める1980年代は、性意識が進んでいるとされる米国でさえ、彼女の存在を不道徳とする声が多かった。当時のナンシー・レーガン大統領夫人は「結婚するまでダメ、絶対」と性教育そのものを否定。これが多くのエスタブリッシュメント(社会的権威を持つ階層)の本音であった。
しかも、この米国の富裕層は、もし妊娠すれば飛行機で密かに日本に渡り、中絶手術を受けることが可能であった。低所得者層はそうはいかない。違法かつ危険な方法による命がけの中絶だった。



コンドーム論議

 この時期はエイズが蔓延した時代で、「ゲイが淫乱(いんらん)の原因」とされ、やっと1986年に当局がコンドームを公認した。
人に多くの喜びをもたらす性の問題について、正しい方向へ導く、学門的な指導は置き去りにされていた。当時の社会環境から「コンドームはレインコートを着てシャワーを浴びるようなもの」と揶揄(やゆ)された。また、女性自身がコンドームを携行することも憚(はばか)れたのが実情であろう。
このような時代だからこそ、ドクター・ルースの存在が待たれたのである。彼女は「避妊は男女2人でするもの」として、コンドームは「健康グッズ」とした。この種の論議は「性は楽しむもの」とする大前提に立っており、ここが米国社会の先進性である。





フェミニズムとドクター・ルース

 彼女は、コンドーム問題以外にも、性のタブーに果敢に斬り込む。中絶自由化を手始めに、LGBTO(レズビアン、ゲイ、バイセクチュアル、トランスジェンダー、クエステョニング)の人々に心を寄せ、エイズ危機の偏見の払拭などの改革に貢献した。
持ち前の明るさと笑顔、そして強いドイツなまりの英語が、性に悩みを抱える人々を優しく包み込み、1984年のラジオ番組を皮切りに、テレビ、講演と活動の幅を広げ、現在に至る。しかも女性の性の意識が高いと思われた米国でも、性に悩む多くの人々がいることが明らかになる。





彼女のアドバイス

 ある若者からラジオでオーガズムの仕方を質問される。彼女の回答はズバリそのものである。「バックスタイルで挿入し、空いた手でクリストリスを触れよ」である。この発言、公器のラジオ局から流れるところがすごい。
これは過激なアドバイスの一例だが、説得力がある。これを、90歳の老婦人がにこやかにご託宣を下す、底抜けの明るさ。性とは隠すものでなく、楽しむものとの信念に基づいている。





大学の恩師

 彼女がセックス・セラピストの道を選んだのは、コーネル大学のセラピスト、フェミニズム活動家で性機能障害治療法の方法論を初めて編み出した、ヘレン・シンガー・カプランの下で7年間学んだことが大きい。カプランがセックス・セラピストの道を選ばせたとも考えられる。
しかし、ドクター・ルースはフェミニズム運動には加わらなかった。なぜなら、彼女自身の活動が既にフェミニズムであったからだ。





ドクター・ルースの信念

 彼女は、基本的には性を通して女性の権利獲得の活動家とも規定できる。セックス・セラピストとしては、女性のみならず男性の悩みにも、例のニコニコ顔で応対し、信奉者を増やした。
ひと言でいえば、米国人の意識を変えたポピュラーな性の開拓者である。さらにいえば、彼女の行為は大変な偉業と称えるに値する。






(文中敬称略)

《了》

8月30日から新宿ピカデリーほか全国ロードショー

映像新聞2019年8月22日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家