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『人生をしまう時間(とき)』
NHK放送のドキュメンタリーを映画化
終末期医療の現状に迫る

 仏教でいうところに「生老病死」(四苦)がある。人間の一生はこの世に生をうけ、年を取り、病気をし、そして逝く意であるが、「死」について、われわれは問題を先送りする傾向がある。しかし、生きることは「死」への一過程であり、何人(なんびと)も避けて通れない。この「先のこと」と思いたい死について、どのように受け入れねばならぬかをテーマとするドキュメンタリーが、『人生をしまう時間(とき)』(2019年、下村幸子監督、製作NHK,110分)である。下村監督が自らカメラを回している。

往診の小堀医師       (C)NHK ※以下同様

全盲の広美(左)

堀ノ内病院全景

病院内での打ち合わせ

往診に駆け付ける小堀医師

広美と家族たち

診察中の堀越医師

診察中の小堀医師

看護師(左)と患者

堀越医師(左)と患者の家族

テレビ番組の劇場映画化

 もともとは、2018年6月18日に放映されたNHK BS1スペシャル『在宅死"死に際の医療"200日の記録』である。それに、テレビ版にはない新たなエピソードを追加、再編集を施し、ドキュメンタリー映画『人生をしまう時間(とき)』として劇場公開の運びとなった。
以前、この欄で触れた沖縄復帰の不屈の闘士、瀬長亀次郎のテレビ・ドキュメンタリー『米軍が最も恐れた男〜その名はカメジロー』(17年)、『米軍(アメリカ)が最も恐れた男カメジローの不屈の生涯』(19年)と同様、テレビ・ドキュメンタリーの劇場版映画化(TBS製作・佐古忠彦監督)である。秀作ドキュメンタリーの映画化は大変ありがたい試みで、テレビ局に感謝したい。  
  


終末期医療

 "人生をしまう時間(とき)"に、人は、家族は何を望むのか、大事な問い掛けである。
本作では、このテーマを2人の訪問診療医の活動を通し、「在宅死」の在り方を考えさせる。見る側は、この2人の医師の献身的活動により、「在宅死」の現状に迫ることができる。死に対する漠然とした恐怖、そして、その過程と、かかわる人のそれぞれの生活を追っている。



主人公の2人の医師

 
1人は、外科医として医学界では金箔付きの大先生、小堀?一郎(こぼり・おういちろう/80歳)である。東大医学部出身で、東大病院第一外科、国立・国際医療研究センターに外科医として40年間勤務、定年退職後は埼玉県新座市の「堀ノ内病院」に赴任、在宅治療に携わる現役の訪問医だ。
もう1人は、群馬大学医学部出身の堀越洋一(56歳)。国立病院医療センターから、同センターの国際医療部で世界30国での海外勤務。その後、2013年より「堀ノ内病院」に所属、在宅での看取(みと)りを見据えた訪問診療・在宅医療に取り組む。
「堀ノ内病院」の在宅専門の医療チームは、医師4人、看護師2人で140人の在宅患者を診ており、2人は自動車を駆って東奔西走の毎日を送っている。



息を引き取るということ

 いつか来る「死」についての考察
冒頭、ストレッチャーに乗せられた老婦人が大勢の人々に囲まれ、家に戻る。「帰りたい、どんなボロイ家でも」と彼女、浅海富子(91歳)は語る。
この場面、人の死とはこのようなものかと考えさせる強烈な一瞬だ。周囲は危篤状態の彼女に一生懸命話し掛ける。手には夫との思い出の写真が握られている。
次の場面で、小堀医師は酸素マスクを静かに取り外す。最後は「お家(うち)」でと富子は強く希望し、救急車で自宅に戻った。医師は死が迫る中、彼女のたっての願いを聞き入れ、自宅に戻したのだ。そして周囲の人に会わせた後、酸素マスクを外したと考えられる。
亡くなる直前で「お家」への搬送と、その後の処置は、冷徹な死の現実を突き付け、死とはこんなに呆気(あっけ)ないものかと教えてくれる。この死との向き合い方と終末医療に対し、本作では数々の事例を挙げている。



2通りの死に方

 本作では、小堀・堀越両医師へのルポルタージュの形をとり、病院と自宅での死について詳細を見せる。
小堀医師を始めとする医師側は、なるべく患者を設備の良い病院へ入院させることを第一に考えている。医者としては当然であり、家族の負担も軽減される。
しかし、そこに立ちはだかるのが、死を間近に控えた患者の「お家に帰りたい」願望である。医師が意を尽くして入院を勧めても、大概の患者は拒絶する。



家族と医師

 堀越医師が担当する患者に、脳梗塞を患う独り暮らしの藤本正枝(96歳)がいる。10数年来付き切りのケアマネージャーとは既に話がつき、「助かる見込みのない治療はしない」と家族で決めていた。
堀越医師も独りで亡くなる多くの人を看取った経験から、「本人が『お家』を希望するのであれば、それを尊重する。息を引き取る時に誰もいなくとも、それまでに深いかかわりを持っていれば、その過程が大切」との持論の持主だ。
息を引き取った後、彼は「ご縁があって、大切なことにかかわらせていただきました。ありがとうございました」とあいさつする。心に染み入る、死者を送る美しい言葉だ。





入院の場合

 「お家」を望む人が圧倒的に多いが、入院の例も取り上げている。
小堀医師担当の陽気な患者、星野君子(103歳)は認知症で、息子の司郎(77歳)が夜も2時間おきに様子を看ている。本人は、医師の前ではいたって元気を装っているが、司郎の妻は夫の過労ぶりを案じ、ケアマネージャーを含めて息子夫婦と入院について話し合っている。
そして入院が決まる。最初は、軽いショートステイから始まる。家族の負担を考え君子は「自分がいなくなれば、皆が楽なことは分かっている」と言えば、小堀医師は「あなたが、それを分かるただ1人の103歳です」と応じる。
小堀医師の温かいがリアリスティックな対応、ときには必要なことかもしれない。「入院すれば良くなりますよ」とは一言も言わない。長い経験に裏打ちされた、患者に現状を認識させる手法であろう。
ただ、入院の可否について、もう1つの事例を提示している。認知症の老婦人が周囲の負担を考え、ショートステイ、デイサービスの段階を踏み、家の布団をベッドに替えて、入浴サービスも受けるが、明るかった本人がだんだんと不機嫌になってしまうケースだ。やはり、今まで慣れた環境から離れられない。





全盲の娘の介護

 小堀医師担当の患者に末期ガンを患う千加三(83歳)と、その娘で全盲の広美(47歳)がいる。このグループの姿には心を動かされる。
千加三の妻は8年前に脳梗塞で倒れ、その後他界する。運送会社に勤める彼は、妻と全盲の娘の世話を1人で続けてきたが、今度は自分の番で、娘が彼の世話をすることになる。
広美は菩薩(ぼさつ)様の生まれ変わりのような善意に満ち、心優しい女性で、まず周囲の人たちへの感謝の言葉を忘れない。ある時、広美は父の容態が良いことを小堀医師に伝える。
すると彼は「今は小康状態で、1日ぐらい体調が良いからといって楽観してはいけない。基本的には良くなる可能性はゼロであり、このように良好な状態が続けば、それはそれで結構」と厳しく釘を刺す。命のリアリズムであり、病状を患者に正確に把握させる医学的配慮である。





死とは

 人がこの世を去るということは自然なことで、その覚悟をもって生きねばならないことを、本作は述べている。生きるということは、死へ近づく必然である。
一見すると辛気臭く感じるテーマだが、見る価値がある作品だ。






(文中敬称略)

《了》

9月21日から渋谷 シアター・イメージフォーラムにてロードショーほか全国順次公開中

映像新聞2019年9月30日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家