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『人生、ただいま修行中』
監督自身の重病による体験から着想
「他者のために働く」若者像を描く

 入院すれば看護師の世話になり、多くの人が彼女(彼)たちに感謝し、晴れて退院するのが普通の光景である。その職業に就く人々を養成する専門学校を舞台に、若い人々の成長を描く作品が『人生、ただいま修行中』(2018年/ニコラ・フィリベール監督、ドキュメンタリー、製作フランス、105分/英題「Each and Every Moment」)である。この若き人々の日常や勉学から、人生そのものが見えてくる。英訳タイトルも、作品の趣旨をよく表している。

 
フィリベール監督は、日本でも知られる数少ないドキュメンタリー監督だ。彼の名を有名にしたのは『ぼくの好きな先生』(2002年)であろう。この作品、フランスの片田舎の小学校における3歳から11歳までの13人の児童たちと、1人の先生の交流を描き、多くの人に感銘を与えた。
ほかに日本公開作品では、『パリ・ルーブル美術館の秘密』(1990年)、『かつて、ノルマンディーで』(2007年)など、何本かのドキュメンタリーがある。
フィリベールは1951年生まれで、監督デビューは早く、78年に『指揮者の声』(本邦未公開)を製作。今年で68歳と、ベテランの域に達している。筆者は90年代初頭、フランス・ビアリッツ市開催のFIPA(国際テレビ映像フェスティバル)で彼に会って話をしたが、その時は中堅といった印象で、現在68歳と聞いて、時の経つ速さをつくづく感じる。
ドキュメンタリー作家の宿命で、劇場公開作品は多くない。つまり、興行性が乏しく、なかなか一般商業館では上映しにくいが、近年、ドキュメンタリー作品の劇場上映が増え、以前と様子が異なってきている。
ドキュメンタリーの大部分は、映画祭でその存在を知らしめてきたが、フランスでは仏独教養テレビ局「アルテ」(1992年開局)のおかげで、ドキュメンタリーのテレビ放映も画期的に増加した。一例をとれば、パリ在住のディレクター作家、渡辺謙一も主としてアジアの太平洋戦争を取り上げ、フランス人にとり遠い極東の第二次世界大戦を伝えている。
ここ数年、ドキュメンタリー作品の劇場公開、テレビ放映の増加は顕著で、1つにはテレビ局がイニシアティブをとっている面が大きい。フィリベール監督も、「アルテ」をはじめとするテレビ局の後押しを受け、積極的に海外(あるいは国内)の映画祭に出品し、活躍している。

看護の生徒     (C)Archipel35,France 3 Cinema,Longride-2018 ※以下同様

実習中の生徒たち

実習中の生徒たち

実地実習 ギブス外し

注射の実習

教官から、人形を使って注射の指導を受ける

入院患者の実地実習

指導教官に面談する生徒

病人を担架から下ろす実習

血圧実習

作風

 フィリベール作品は、カテゴリーとして、観察ドキュメンタリーに属している。この語の定義は各人各様であるが、筆者は、対象に対して一定の距離感を持ち接する手法と考えている。情緒を排し、物事の核心に迫る手法で、ドキュメンタリー制作には欠かせない。
例えば、彼の傑作とされる『ぼくの好きな先生』は、まさに観察映画の模範作品である。日本では、観察映画分野に想田和弘監督がいる。彼は映像以外にSNSで、腰の引けた大メディアに代り、政治的発言をいとわず反権力的論陣を堂々と張っている。わが国に観察映画の概念を持ち込んだ貴重な映画人であり、筋金入りの論客でもある。  
  


製作動機

 本作『人生、ただいま修行中』は、フィリベール監督が2016年1月に塞栓症入院した時に想を得ている。死にかけた症状だけに、彼の観察眼は周囲におよび、また、感謝の意を伝えるための製作である。おそらく彼は、看護師たちの働きに目を見張ったと筆者は想像する。
身近な話だが、筆者の在パリ中、身内がガンでパリ赤十字病院に入院した。症状が重篤の患者に、医師は半ば諦め気味であったが、看護師は患者に何くれとなく声を掛ける姿を見た。それが患者や家族にとり大変有り難く、彼女たちに後光が差すと思えるほどであった。この時、看護師は単なる医師のアシスタント以上の存在であることも痛感した。
このような個人的体験があり、本作が他人事と思えず見入った次第である。蛇足ながら、このガン患者、この世に足をとどめ元気に過ごしている。



看護学校

 
看護学校の学生たちの実情
日本の看護学校のことを知らぬ筆者は、本作でフランスの看護学校について学ぶ機会を得た。ドキュメンタリーは、知らぬことを知らしめる効用があり、本作はまさにその見本である。もちろん、自身が経験しないことをフィクションで知ることは当然だが、ドキュメンタリーにその傾向が一層強いことを付け加えたい。そこがドキュメンタリーの面白さでもある。
撮影地となった看護学校はパリの北部、環状線近くにあり、3年制で270人の生徒が在籍している。看護学校は、フランス全土に330校以上あり、パリ地域圏でも約60校あるとのことだ。
学生たちは白人、黒人、アラブ人、アジア人種が入り交り、多様性を誇っている。フランス国籍を持ち、当然のことながらフランス語を話す。この雑多な民族の集合体、実に陽気で明るい。一般的に集団の中に黒人が交じると、場が明るくなるといわれるが、その現象を地で行っている。
この看護学校、フランスの大学と同様、授業料は無償である。



実習

 カリキュラムは、実習、患者との実地体験、そして指導教官との話し合いの3部仕立てである。
看護師といっても、男性の数は少ない。これは日本でも同様、そして有色人種が多い。公立であり、低所得層の壁となる学費の負担がないことも原因と思われる。
実習では人形相手に注射の練習をするが、大部分がてこずる様子がおかしい。失敗してもゲラゲラと大笑い。とにかく明るい。また、出産の訓練もある。人間大の下半身だけの人形を使って、男子学生が真剣な表情で赤子の取り上げの練習をする。この場面も笑える。
人命を取り扱う人間たちも、謹厳実直な態度ばかりでなく、時に笑いを交えての実習、その輪に指導教官も加わる。ここに、フランス人独特の明るく生きる人生観が、全体にほとばしっている。



話し合い

 実習が終われば、次は実際の患者との接触。さまざまな症状を抱えた患者に、実習生が直接対応する。この実地訓練が実習生にとり一番厄介である。なぜなら、彼らは悩み、ストレスを抱えているからだ。
看護学生は、実習と患者の治療の間に挟まり、いろいろと問題を抱え込む。それを解決するのが指導教官との話し合いと職業的アドバイスである。
これは希望者のみで、教官との一対一で実施されるが、いわゆる教える側と教えられる側の縦関係ではなく、対等な話し合いの場となる。
わが国の人間関係は、縦関係が主流で、横関係を作り難い現象がある。それは、国民的風土とさえ思われるが、フランスの場合、対話、あるいは話し合いの長きにわたる習慣が根付いており、教官は驚くほどの辛抱強さで、学生の話に耳を傾ける。
一朝一夕で作り上げた文化ではない。この対話の習慣は、今のわが国で必要とされるものと、筆者は確信している。



作り手の意図

 重病から復帰したフィリベール監督の、撮影の動機を知れば、本作の製作意図が理解できる。彼は、現在の若者は保守的になっていると指摘する。そこで「他者のために働く」若者像こそ、彼が描きたかったものとインタビューで語っている。
失われつつある、互いに助け合う奉仕の精神(もちろん、長年のカトリックの影響を無視しては語れない)の再認識を看護学校の生徒を通して、フランス社会に要請しているのではなかろうか。見るべき1本である。





(文中敬称略)

《了》

11月1日から新宿武蔵野館ほか、全国順次公開

映像新聞2019年10月28日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家