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『家族を想うとき』
名匠ケン・ローチ監督の復帰作
現代社会に対する怒りと警鐘

 英国の名匠、ケン・ローチ監督の新作『家族を想うとき』が公開される。2016年にカンヌ国際映画祭で『わたしがダニエル・ブレイク』がパルムドール(最高賞)を獲得し引退したが、この決意を覆し、3年後となる19年に本作を製作した。現在の英国社会、そして、新自由主義の世界的動向を見て、黙っていられない心境からのカムバックと推測される。83歳を迎えた同監督の現状への不安、怒りがメインのテーマとなり、かなりシビアな状況を描き、労働者階級の困窮へ寄せる思いに心動かされる。

食卓の家族     photo: Joss Barratt, Sixteen Films 2019 ※以下同様

リッキー一家

父と娘

配達を手伝う娘

上司から叱責されるリッキー

兄妹

介護中のアビー(左)

父と娘

配車場のリッキー

職場の仲間と

ケン・ローチ監督

 彼の持ち味は終始ブレない、自身の出自たる労働者階級への寄り添い方にある。電気工の父と仕立屋の母は、もちろん労働者階級に属している。
ケン・ローチ自身は、英国空軍に2年間従軍した後、オックスフォード大学で法律を学び、後に英国公共放送BBCに入り、ドキュメンタリー作家への歩みを踏み出す。労働者階級の子弟がオックスフォードに入学することは、英国社会では多くないようで、何らかの奨学金を得たのであろう。
筆者は、カンヌ国際映画祭の会期中、夕食後に街中で彼と近しく話す機会を得たが、同監督の柔らかな物腰、丁寧さに驚き、感心したものであった。
デビューはBBCのTVドラマ『キャシー・カム・ホーム』(1966年)で、その後は長編劇映画の世界的監督として名を馳せた。特にカンヌ国際映画祭では、『麦の穂をゆらす風』(2006年)と『わたしは、ダニエル・ブレイク』(16年)で2度のパルムドールを獲得している。
コンペ部門への出品さえも難しい中、この2回の受賞は大変な栄誉である。過去には、日本から今村昌平監督が『楢山節考』(1983年)と『うなぎ』(97年)で2度のパルムドール受賞を果たしている。  
  


リッキー一家

 登場するのは、労働者家庭のリッキー(クリス・ヒッチェン)一家で、彼は建設作業員。仕事ぶりは生真面目で働き者だが、気が短く、家庭内の口論の元は常に彼にある。彼の夢は、現在の借家を出てマイホームを買うことである。
賢明で訪問介護福祉士の妻アビー(デビー・ハニーウッド)、高校生で成績の良い息子セブと娘ライザの4人家族だ。いつも元気の良いリッキーが一家を引っ張っている。アビーは彼に従い、子供たちも父親と良好な関係を結ぶ理想的な家族であり、住宅購入の貯蓄にも励んでいる。
この平和を揺るがすのが、銀行と金融組合の同時破綻で、住宅ローンが組めなくなったことだ。丁度、わが国のバブル崩壊と、格差社会の一層の拡大を思い起こさせる。この経済危機で、リッキーやアビーのような低所得層が取り残される結果となる。
建設業も不況の影響を受け、リッキーは失業する。彼は家族を養うために、一生懸命働き通しで、釈然としない思いが募る。そして冒頭シーンのように、リッキーは職探しに奔走する。
彼は、このままではジリ貧と思い、実入りのよさそうな宅配ドライバーに目をつける。だが、実際は、たとえ中古でも輸送用にバンを購入する費用が必要である。その一部をアビーの車を売り、何とか工面する。自営業として働けば、数年でマイホームが入手できる夢に賭けたリッキーは、フランチャイズ(運送業)の事務所で責任者と話し合う。



運送会社との話し合い

 
実際に話を聞くと、仕事用のバンは自分持ち、レンタルならば相当高くなる。もし休みを取る場合は、代替要員を探すか罰金の支払い義務がある。その上、正式契約ではなく非正規雇用形態。しかも運送会社自身の費用負担はない。
彼には、黒いボックスが渡される。それにより本部で荷物の運送状況、現在地の検索ができ、1分1秒も管理する体制になっている。組合もなく、不満があっても会社側は相手にせず、「代替はいくらでもいる」と逆に脅しをかける。完全なブラック企業である。



不条理な労働形態

 労働組合が発達した英国でも、このようなシステムがまかり通る。ドライバーたちは、前述の非正規雇用で、経営者側の持ち出しはゼロ。パートが騒げばすぐに解雇で、組合どころの話ではない。
ここに、ローチ監督が不条理な労働形態に対し、異議申し立てをしたのが、本作である。この状況、わが国でも起きており、貧しいものはさらに貧しくなる構造的貧困が醸成されている。世界的な搾取問題と考えてよい。
リッキーの場合、労働者は個人事業主として扱われ雇用契約はなく、ドライバー持ち込みの車両を提供する条件があり、法的に保護されず、会社側は運送料だけを支払うシステムである。従ってドライバーは、より多く働かねばならない。



家族の時間

 過酷な労働環境に奪われる家族の絆
少しでも高収入を得るためには、長時間労働が強いられるが、わが国でも同様な問題が発生している。24時間営業が当たり前のコンビニでは、アルバイト不足で深夜営業廃止を親会社に求める紛争が、しばしば起きている。長時間労働の限界を超え、英国以上の悪条件で、コンビニ側が渋々過酷な条件を飲まされている現実がある。
ローチ監督が描く世界は、決して英国だけではなく、世界中に蔓延している現象と考えてよい。
長時間労働は、妻のアビーにも及ぶ。訪問介護福祉士であり、1日14時間、週6日の勤務で、車は夫のバン購入のため売ってしまい、今はバス通いの毎日だ。彼女の信条は、お年寄りを自分の母親と思い世話することである。
ここに、ローチ監督作品で重要な位置を占める善意の人々が登場する。アビーの場合も並の奉仕の精神ではない。彼女も疲労困憊(こんぱい)の毎日である。一方、両親の帰りが遅く、長男のセブと妹のライザは、2人で質素な夕食を取る。会話もない、一家団らんとはほど遠い光景だ。家族間の亀裂の予兆である。



息子の非行

 だんだんと精神不安定になるセブは、クラスで友人を殴りケガをさせる。また、仲間と車両庫の電車にペンキで落書きをする。そして、ペンキを商店から万引きする。当然、学校や警察から両親に連絡が入り、すぐに出頭せねばならない。仕事を休む許可を願い出ても現場責任者は、罰金を盾にOKを出さない。業を煮やしたリッキーは無断で会社を飛び出し、息子をもらい下げる。
悲劇はこれで終わらない。バンを狙っての強盗にリッキーが暴行を受け、病院に運び込まれ、アビーが駆け付ける。長い間待合室で待たされ、夫妻はイライラの連続である。
おまけに会社からは、休業の罰金を申し渡される。たまりかねたアビーが「人が重傷を負っているのに、何という言い草、ファック野郎」と思わずやり合う。この労働者によるイタチの最後っ屁ばりにタンカを切る姿は、ローチ監督お得意の一幕である。観客が溜飲を下げるシーンは、これまでの作品にも見られた。




格差社会

 本作で描かれる英国の低所得階層(庶民)の困窮は、社会全体の格差問題であり、着想はフードバンクから得ている。ここでパンを求める人々の大半が、パートや非正規労働者なのだ。
いつものローチ監督作品には何か救いがあり、労働者の連帯やユーモアが描かれていた。しかし、これらの過去の作品と比べ、本作は確実に暗い内容になっている。これまでの庶民生活、豊かではないが明るくユーモアがあったが、本作ではそれが消えている。
この暗さはどこから来ているのだろうか。格差社会がもたらす貧困層の増加に対する、ローチ監督の「怒りと警鐘」と受け取れる。






(文中敬称略)

《了》

12月13日からヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次公開

映像新聞2019年12月9日掲載号より転載


中川洋吉・映画評論家