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『ジョーンの秘密』
実話を基に描く歴史の隠れた一面
英国の核兵器機密情報をソ連に漏洩
スパイ容疑で逮捕された老女

 他人とは違う道を選択肢とし、苦しくとも納得する人生の追求は、多くの人々に多大な感動を呼ぶ。このテーマの作品で公開が待たれる『ジョーンの秘密』(2018年/トレヴァー・ナン監督、英国、101分/原題「RED JOAN」)は、正(まさ)しく秀作であろう。主人公の女スパイ、ジョーンには、矜持(きょうぎ)と揺るぎのない信念が感じられる。

ジョーン(右)と弁護士の息子(左) (C)TRADEMARK (RED JOAN)LIMITED 2018 ※以下同様

若き日のジョーン

自宅でのジョーン

取り調べのジョーン

大学内で恋人とのジョーン

舞台背景

 主人公のジョーン・スタンリー(ジュディ・デンチ=英国劇壇を代表する存在。わが国で言えば、映画・演劇に偉大なる足跡を残した故・杉村春子にあたる国民的女優)は、現在85歳で、今もって活動中。「007シリーズ」の「M」役のコワイ老婦人でもある。
物語は第二次世界大戦前、1938年から始まる。若き日のジョーン(ソフィー・クックソン)はケンブリッジ大学に学ぶ物理学徒で、いわゆる理系の秀才女性だ。ある時、彼女はソ連人女性ソニア(テレーザ・スルボーヴァ)と出会い、意気投合した2人は、共産主義の若者の集まりに参加。そこでジョーンは、ソニアのいとこであるレオ・ガーリチを紹介され、一目ぼれする。
話が若者の恋で終われば、「めでたし、めでたし」となるが、ここからが本番となる。戦前の英国(多分、欧州の多くの国でも)では、新しい思想としての共産主義への傾倒が、若者たちの思想形成で大きな役割を果していたと考えられる。
その一端が、ジョーンの共産主義に対する親近感である。戦前のわが国のマルクスボーイと似ている(共産党員であることが非合法であった)。 
  


自宅からの連行

 晩年のジョーンは、72歳の定年退職を機に田舎の一軒家に引きこもり、草花の手入れを楽しむ毎日を送る。
そこへ、2000年5月に英国の諜報機関MI5(英国保安部=国内の公安事件を扱う情報機関の元締め)の訪問を受け、逮捕される。近所の人々が知らぬ間に、数台の車に囲まれ連行された。これが、後の彼女の記者会見の伏線となる。



逮捕の理由

 
この逮捕劇から、彼女の罪状が徐々に明らかになる。MI5の取り調べで、1980年まで現役のスパイと判明。引退後、彼女が田舎に引っ込み、普通の一老人女性として過ごす。しかし、当局はスパイ嫌疑で20年近くもジョーンを泳がせていたフシがある。
物語の進行は取り調べによる時系列で、彼女の行動歴が次々と明らかになり、見る側にとり分かりやすい。今まで母について何も知らなかった1人息子で弁護士のニックには、自分の過去を何ひとつ語っておらず、最初の逮捕時も、付き添うニックを怒らせてしまう。それほど、彼女の行動歴はベールに包まれたものであった。



原作のモデル

 原作はジェニー・ルーニーの『Red Joan』で、実話を基に映画化された。モデルはメリタ・ノーウッド(1912−2005年)で、1980年代に関係事件の書類の中で名が浮かび上がった。
彼女は1930年から活動を始めた、ソ連の諜報機関「KGB」の最も重要なスパイの1人。実際はMI5のリストに2度名が挙がったが確証がなく、泳がされていたと思われる。両親が社会主義者であり、彼女も共産主義の賛同者となり、若き日に英国共産党員となる。
ケンブリッジ大学卒業の彼女は、英国の核技術開発機関「非鉄金属研究協会」に勤め、核兵器関連の機密文書をソ連に流した。逮捕後、彼女はスパイ行為を自宅前の記者会見で初めて認め、時の人となる。




スパイ合戦

 1950年ころからは、米ソが冷戦時代に入り、ソ連と米国のCIAと英国のMI6(対外諜報機関)がスパイ合戦でしのぎを削り、核兵器の機密の奪い合いとなった。当時の様子を物語る人気小説が作家イアン・フレミングの「007シリーズ」で、小説・映画とも記録的にヒットした。
米ソ対立と核兵器覇権争いの時代相がなければ、本作の主人公は存在しなかったはずだ。




レオとの恋

 ケンブリッジ大存学中、ソ連人女性リニアの紹介でジョーンとレオは知り合い、恋愛関係に陥ることは前述した。ソ連のKGB系のレオは、ジョーンに核の資料の横流しを再三にわたり要求するが、生真面目な彼女は頑なに拒否する。
そして、レオとジョーンの連絡役はソニアが務め、盛んにアプローチするが、ジョーンの拒否にあい、レオとジョーンは愛しながらの別れとなる。
英国も米ソに負けじとばかり、第二次世界大戦中に自ら独自の核研究を始め、ジョーンはそこで研究員として参加。彼女の上司がマックス教授である。2人は師弟関係だが、マックスの強い誘いでジョーンも彼に心が傾く。
マックスは妻帯者であるものの、不倫関係ではなく、夫人との離婚問題を解決した後に正式に結婚する希望があり、相変わらずはっきりしない関係が続く。





ケンブリッジ・スパイ事件

 ジョーンの各開発研究の間に、1930年代から、若い優秀なケンブリッジ大学の学生が進んでソ連のスパイとなる事件が起きる。皆、優秀な学生で、しかも富裕階級の子弟の彼らは中央官庁勤務のエリートたちであった。核兵器の秘密資料の漏洩(ろうえい)を薄々感じ取っていたMI5や英国政府は、各研究者を疑うが、皆、政府の高官の絡みがあり、手が出せない状況である。
そして、数多くの核資料が英国からソ連に渡る。その過程で、研究者ジョーンの名が挙がった経緯がある。
当時の英国では、戦前から共産主義に傾倒するエリートたちの活動は合法であり、認められていた。彼らの批判は、第二次大戦中の英国経済の不振と資本主義への絶望、上流階級への嫌悪へ向けられた。
そして、ナチス・ドイツの台頭もあり、ファシズムに対抗するには共産主義が唯一の処方箋と考えるインテリ若者集団が存在した。その中の5人、いわゆる「ケンブリッジ5人組」は、戦前から戦後へかけてソ連のスパイとし、政治中枢にまで入り込み情報を提供し続け、露見後、最後はソ連に亡命している。





ジョーンの信念

 逮捕後、仮釈放となったジョーンは、郊外の一軒家の庭先で記者会見を開き、自己の確固たる信条を公言する。
スパイ行動の直接の動機は、米国による広島への原爆投下で、この惨状をフィルム映像で見た彼女は、米国(含英国)の核独占が惨状をもたらすとし、敵対国ソ連が核兵器を持てば、力の均衡が可能となり、広島の悲劇を防げると考えるに至る。そして、自らの意志でソ連へ情報提供をする。
これらの行動、単なるスパイ活動の否定だけではなく、平和のためなら、核兵器が抑止力保持に有効手段と判断する考え方である。この視点には一理ある。その証拠に、戦後75年の現在まで、一度も原爆の再投下はされていない。彼女の隠れた行動は、同時代の「ケンブリッジ5人組」の志向と若干重なり合うところがある。
ジュディ・デンチが演じるジョーンの確信犯的内部告発行為は、本作『ジョーンの秘密』では、歴史の隠れた一面を見せる衝撃的インパクトを秘めている。傑作である。






(文中敬称略)

《了》

8月7日からTOHOシネマズ シャンテほか全国ロードショー

映像新聞2020年8月3日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家