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『アンティークの祝祭』
人生の終わり悟った老婦が過去を整理
カトリーヌ・ドヌーヴが主演
人の深奥に潜む思いが伝わる演出

 フランスを代表する大女優、カトリーヌ・ドヌーヴの主演作品『アンティークの祝祭』(2019年/ジュリー・ベルトゥチェリ監督・脚本・製作、フランス、94分/原題「La derni?re folie de Claire Darling」日本語訳=クレール・ダーリングの最後の情熱)が公開される。今年77歳を迎えるドヌーヴは、デビュー当時の可憐(かれん)さから変わらぬ美ぼうを保ち、人生の年輪を重ね、今や堂々たる女性版偉丈夫の役柄をこなしている。彼女にしかできない役を、彼女流に見せる芸である。本作では監督の要望を入れ、トレードマークである金髪を白髪にしている。

邸内のクレール
 (C) Les Films du Poisson - France 2 Cinema - Uccelli Production - Pictanovo ※以下同様

娘のマリー

若き日のクレール(右)

クレールとマリー

前庭のアンティークに囲まれるクレール

邸内のクレール

ドヌーヴ自身について

 近年の彼女の役どころは、強い意志と自己決定権を併せ持つ女性が多い。以前、カンヌ国際映画祭の記者会見で、若いシネフィルのジャーナリストが、なれなれしく質問をした時、彼女は色を成し、不快の表情を浮かべた。この辺り、ドヌーヴは難しい女優とされているが、フランスの映画評論家によれば「敬意をもって接すれば、丁寧に応答する」とのことだ。大変プライドの高い女優なのだ。
是枝和裕監督の最新作『真実』(2019年)における彼女は、「遅刻はするわ、セリフは入っていないわ」と、是枝監督を嘆かせた報道を目にしたが、今やフランス映画の女王様なのだ。年齢相応の芝居を作り上げてきた彼女の自負の表れであろう。
例として近年の『ルージュの手紙』(17年)の女賭博師、『太陽のめざめ』(15年/カンヌ国際映画祭オープニング作品)の青少年施設の所長の役柄が挙げられる。彼女にとり本作は、身の丈に合っている。さらに、近年の彼女にはオーソリティ(威厳の意)が備わり、新しい自身の役柄を追及している。 
  


クレールを巡る人々

 本作の原作は、米国のリンダ・ラトレッジの小説『Faith Bass Darling's Last Garage Sale』で、舞台をフランスに置き換えている。地方の大きな館に、主人公クレール(カトリーヌ・ドヌーヴ)が1人で住んでいる。ロケで使用した館はジェリー・ベルトゥチェリ監督の祖母の家である。いわば、地方ブルジョア(資産家)家族が作品の主人公である。
場面の展開をより分かりやすくする手法として、説明を省き、フラッシュバックを多用する構成であるが、さほど難解ではない。
クレールがもちろん主役であり、彼女には2人の子供がいる。1人は早逝した息子マルタン、もう1人が娘のマリー(キアラ・マストロヤンニ=カトリーヌ・ドヌーヴの実娘。父親はイタリアを代表する俳優のマルチェロ・マストロヤンニ)で、彼女は母親クレールとけんか別れをし、この20年間戻っていない。
そして、重要な案内人としてマリーの小学校時代の同窓であるマルティーヌ(ロール・カラミー)が配される。彼女は地元にとどまり、骨董具店を経営している。この骨董具店に大きな意味合いがある。



クレールの決心

 
冒頭、目を覚ましたクレールは、家の中のアンティーク類を運び出すために、メイドに命じて若い人を何人か集めることを頼む。既に認知症の気配を見せる彼女、どのように決断を下したかの説明は省かれるが、「今日が最後の日」と心に決め、そのためには過去の整理を考える。その一環が、館の前庭いっぱいにアンティークを並べてのガレージセールである。
クレール自身が長年集めた、あるいは先祖の遺した高価なアンティーク(ティファニーのランプ、バカラのグラス、年代物の象の飾りのついた置時計など)を「持ってけ泥棒」とばかりに、たたき売りを始める。
当時の通貨は現行のユーロではなくフランで、年代的にはフランからユーロに移行した1997年以前と推し量れる(90年ごろは1フラン=20円前後)。庭に並べられた年代もののアンティーク、例えば小物であれば50サンチーム(0.50フラン)、立派なビュロー(蛇腹のカバーで開け閉めする書き物机)が20フランと、タダ同然である。
このガレージセールを知った娘マリーの級友マルティーヌが飛んで来て、捨て値のセールを何とか止めさせようとするが、クレールは頑として首を縦に振らない。そして、マルティーヌの連絡で20年ぶりにマリーが生家の敷居をまたぐ。前庭いっぱいのアンティークを見て、マリーはただただ驚く。



母・娘の仲

 身辺整理、あるいは終活と言えるこの騒ぎ、前庭は買い手でごった返し、彼らは1つの品を巡り、互いにけんか腰になっている。
20年ぶりの再会、互いの強い性格がぶつかり合い、ぎこちない雰囲気で、久しぶりの対面とは程遠い。まず、2人の間のわだかまりが因(もと)である指輪の1件がある。戻ったばかりのマリーに対し、クレールは「あなたが盗んだ私の母親の形見の指輪はどうなったの」と毒を含んだ一言。マリーは「自分は知らない」と反撃する。



マルタンの死

 この1件は序の口で、実はもっと大きな悲しみが作品の底流に流れている。それは、クレールの大事な1人息子、マルタンの採石場での事故死である。女親の息子に対する思い入れは非常に強いものがあり、この愛する息子の死で彼女は精神を病み、それが後の認知症の因となる。この認知症は時折襲うもので、いわゆる「まだらボケ」である。
彼女は、息子の死により性格がきつくなり、夫との口論が絶えず、さらに夫は、クレールの父親から受け継いだ採石場の経営が思わしくなく、自殺を図る。幸い、彼は一命を取りとめるが、この未遂劇が彼女の終生のトラウマとなる。
クレールは、なぜすぐ救急車を呼ばなかったかと後悔の念に駆られる。マリーによれば、クレールは救急車を呼んでいるのだ。この事件の後、2人は激烈な口論を交わし、マリーの家出の原因となる。
マリーの家出までの展開、そして帰宅後の母親との再会、フラッシュバックでそれぞれの出来事を見せ、観客に次はどのような展開かと思わす、ベルトゥチェリ監督の脚本と演出にはリズム感があり、人間の深奥に潜む思いがすんなりと伝わり、手慣れている。見せ方を知る監督で、ストーリー・テラーとしての腕前も確かだ。
そして、クレールを演じるドヌーヴの演技もツボにはまっている。若き日のクレールに扮(ふん)するアリス・タグリオーニの、子供をあまり構わない若い母親の美人ぶりにも目を奪われる。
ドヌーヴ母娘による女性の対決、それを取り巻く、家族の友人アミール(サミール・ゲスミ)やクレールの長年の友人で司祭の2人での包み込むような優しい気遣いが、ギスギスした関係を修復し、クレールを安らかに送り出す。人生の一コマ、一コマが、それぞれの重みを持って語られ、ラストへ静かになだれ込む安らかさは捨て難い。
作品自体は、過去の記憶としてのアンティークの処分を取り上げているが、それ以上に死を通しての魂の再生への期待が匂わされる。強い毒がある作品だが、安寧の念も同時に込められている。
ジュリー・ベルトゥチェリは現在52歳。最初は、テレビ・ドキュメンタリー作家であった。後に、劇映画に進出、本作が3作目となる。
筆者は1970年に『粘土の城へき』(同年、フランスの新人監督賞ジャン・ヴィゴ賞を受賞/本邦未公開)をパリで見て、アルジェリアの砂漠に暮らすイスラム社会の貧しい子供たちの物語に感銘を受けた。『アンティークの祝祭』の監督、ジュリーは、その作品の監督であるジャン=ルイ・ベルトゥチェリ監督(1942−2014)の娘だと知る。あの父に、この娘ありの一例だ。
ただ、父のジャン=ルイは1975年の『ドクター、フランソワーズ・ガヤン』(フランス映画を代表するスター、アニー・ジラルド主演)のフランスでの大ヒットがあったにもかかわらず、日本では全くと言っていいほど、知られていない監督だ。1970年代の日本は、フランス映画の輸入が少ない不幸な時代であったことも影響している。






(文中敬称略)

《了》

近日公開(シネスイッチ銀座ほか全国順次公開)公開日は決まり次第、
公式サイト(claire darling.jp)で発表

映像新聞2020年4月27日掲載号より転載


中川洋吉・映画評論家