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『燕 Yan』
台湾を舞台に描いた胸に響く作品
別れた母に複雑な思い抱く弟

 日本人の手になる、台湾を舞台にする作品『燕 Yan』(つばめ イエン)(2019年、今村圭佑監督、鷲頭紀子脚本/日本、カラー、86分)が近日公開される。スタッフは日本人、そして製作、脚本は女性陣、ロケは台湾の港町・高雄、現地スタッフは台湾映画人である。日台合作と言いたいところだが、台湾色が強いアジア的作品となっている。

 
日本と台湾とで、離ればなれに生きる家族。一家の主人は日本人の修一(平田満)、妻は台湾人と日本人のハーフの淑恵(歌手の一青窈〈ひととよう〉)、長男の龍心(山中崇)、そして本作の主人公である次男の燕(中国語読みのイエンと呼ばれる/水間ロン)という家族構成だ。
燕役の水間ロンは、中国・大連出身で中国語が話せる。劇中の使用言語は中国語、ただし、兄弟(龍心と燕)は日本語で話す。脚本は主人公を演じる水間ロンの中国での実生活を参考にしている。

燕(前)と龍心(後)    (C)2019「燕 Yan」製作委員会 ※以下同様

母親(左)、幼児期の燕(中)と龍心

高雄の町中(まちなか)の燕

母親、淑恵

兄、龍心

トニー

物語の始まり

 東京で暮らす燕は、建築事務所勤務の28歳。所長役の田中要次は、いかにも日本人然とした容貌(ようぼう)で、台湾色の強さが際立つ本作においては浮いて見える存在だ。これは、監督、脚本の狙いであろう。
この燕の所に、今は疎遠になっている埼玉在の父、修一から「用がある」との電話が入る。 
  


港を見る燕

 冒頭のタイトル・バックでは、幼い燕が海に面した家の窓から港を見ている、仮想のインサート場面だ。そして母親の「イエン、イエン」の呼び声が聞こえる。燕は、ツバメのお絵かき最中。横に座る母親は、彼のことがかわいくて仕方がない風情で、息子の体に手を掛ける。母親のあふれんばかりの愛情が見て取れる。この2人の母子関係が物語の軸となる。


父親の用件

 
手土産を片手に訪れた父親宅では、若くて明るい継母、里美(長野里美)が、久しぶりの息子の来訪を歓迎する。縁側に座るすっかり年を取った修一は、1通の封筒を取り出し、台湾に住む燕の兄に渡すよう依頼する。
母親は燕が5歳の時、長男の龍心を連れ台湾に帰国し、母子とはそれ以来音信不通となる。その後も、台湾からの母親危篤の報を無視し、見舞いもしない燕であった。母親の帰国以来、彼は彼女に捨てられた意識を持ち続け、何を今更というのが本心である。
父親の修一は事業が傾き、燕を呼び出した。子供たちに迷惑を掛けたくない父親としては、遺産放棄の書類に龍心が判を押す必要に迫られる。子供たちに借金を残すまいとする、父親のせめてもの心遣いだ。
この20年来、訪れたこともない台湾行きを躊躇(ちゅうちょ)する燕だが、里美の熱心な口添えもあり、渋々この役目を引き受ける。



異郷、台湾

 思いもしない台湾行きで、高雄の町に突然放り出された燕は炎天のもと、ただただ戸惑うばかり。町中(まちなか)の騒がしい肉屋、魚屋、腹を突き出した果物屋と、燕の姿がフラッシュバックで写し出される。この台湾の喧騒(けんそう)と、燕の「来たくて、こんな暑い所に来たのではない」としか思えない捨て鉢な態度。それが好対照をなし、カメラワークが極り、監督・撮影の今村圭佑のセンスが光る。
今村監督自身、撮影監督出身の今年32歳で、本作は監督昇進第1作である。彼の演出で、場面はすっかり台湾色に染め上げられている。見事な出来栄えだ。撮影監督としては、『新聞記者』(19年)、『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』(18年)などの傑作を手懸けている。



兄を求めて

 離れ離れになった兄との再会に戸惑い
やっと兄の住む、廊下が薄暗い集合住宅に辿り着く。しかし、同居人が兄の勤務先の住所の紙切れを、顔を見せずにドアのすき間から差し出す。どうも兄は中にいる気配を感じさせる。また振り出しに戻り、高雄の中心部の屋台街をさまよう燕、「一体、俺は何しに高雄くんだりまで来たのか」と憤懣(ふんまん)やるかたない風情だ。
屋台の前では、幼児を連れた母親が、子供と晩飯用の餃子を買い求める。その場を見ていた燕は、遠い昔の、親子水入らずの食卓(インサート場面)を思い浮かべ、「そういえば、母さんが盛りだくさんの餃子を作ってくれたな」と感慨にふける。今まで、故意に顧みようとしなかった母親との記憶が少しずつよみがえり始める。
そして、彼は屋台で懐かしの餃子とスープを注文。餃子を噛みしめる。追憶と共に。
屋台のおばさんたちは若い彼に興味津々で、いろいろと質問を浴びせ始める。彼は、自分はハーフで母親は台湾人であると、問わず語りに口を開く。燕が、ここでさらに台湾人に近づく一場面だ。町の風景といい、屋台のおばさんたちとの会話といい、今村監督の目の付け所が実に良い。日本人監督の手になる台湾ロケの日本作品が、実に台湾的なのだ。そこには、作品の個性化がきっちりなされ、作り手の手腕が光る。



兄との再会

  龍心と同居する若い男トニー(テイ龍進=兵庫県出身で父は台湾人、母は日本人、いつもお尻がダブダブの白いズボンをはいている。これは台湾の最近の流行か)は、ドアのすき間から燕に紙切れを渡した男性で、彼は気が良く、龍心と燕の間を取り持つ。
なぜか、弟を避ける風の兄だが、ある時、2人で一杯飲む機会をようやく得る。なかなか話し始めない兄に対し、弟はつい声を荒げる。「父親の使いで来たけれど、自分を捨てた母親の国は真っ平」と激しい口調で言い詰める。それに対し、兄はやっと口を開き、今までの経緯を語り始める。
母親の淑恵は、燕を溺愛するが、日本育ちの燕は何かにつけ、「台湾との合いの子」と差別され、イジメられる。その息子のためと、彼女の台湾が恋しい気持ちとが重なり、燕が5歳の時、彼女は龍心だけを連れ、台湾に帰国する。
燕は父親と後妻の家で育てられ成人し、日本の大学を卒業し、今や日本人として暮らしている。しかし、台湾や母親への複雑な思いは封印したままだ。



兄の告白

  売り言葉に買い言葉で、龍心も本音を吐く。「俺だって、お前みたいに日本に居たかった。母さんは最後までお前に会いたがっていた」と語り、手紙の箱を燕に渡す。そこには、龍心が母親から預かり、投函しなかった手紙の束が収められている。日本語の読み書きが不得手な彼女の手紙は、白紙のままだ。
映画的には、この手紙の場面は泣かせどころで、作中の燕ともに涙する見せ場だ。ハナシが良くできている。



母親の一言

  日本で仲良く暮らしていた時代の家族。母親は、息子たちと楽しくじゃれ合うが、将来を予測したようなセリフ(インサート画面で)を述べる。「親の愛は永遠、子はその愛を忘れてしまう」と。親の悲しみと諦念である。胸に迫る一言だ。



台湾まるごと

  南国、台湾を舞台とする、胸にジーンと響く作品だ。母親の息子への愛、父親の家族への気配り、離ればなれの兄弟の結び付き、異郷の人々の心優しさと、まるごとアジア的で、台湾の風土を感じさせる。ここがアジア映画の等身大の身近さであり、その土地の隣人たちと付き合う心地良さがある。
地味な作品だが、一見の価値はある。




(文中敬称略)

《了》

6月5日、新宿シネマカリテ、アップリンク吉祥寺ほか、全国順次公開予定

映像新聞2020年5月25日掲載号より転載


中川洋吉・映画評論家