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『日本人の忘れもの フィリピンと中国の残留邦人』
満州引揚者である弁護士が企画・製作
突き付ける戦後未処理の重い問い
現地で集められた人々の証言

 『日本人の忘れもの フィリピンと中国の残留邦人』(2020年/河合弘之企画・製作、小原浩靖監督、ドキュメンタリー、98分、カラー)は、力作とする以上に傑作と呼べる作品だ。戦後75年の夏、中国、フィリピンに置き去りにされた人々の今を描いている。今や残留邦人の高齢化問題が喫緊の課題となり、今世紀中の解決が待たれる。

フィリピン在留邦人    (C)Kプロジェクト ※以下同様

河合弁護士(左)とフィリピン老婦人

中国残留孤児(右)日本の老人ホームで

中国残留孤児、92年日本定住

中国残留孤児、集団訴訟団

一時帰国のフィリピン在留邦人

一時帰国のフィリピン在留邦人

戦前、フィリピン移民たちの集合写真

2本柱の映画構成

 副題どおり、本作は2本の柱から成り立っている。1本目がフィリピン在留邦人、2本目が中国在留孤児である。この問題の大事な点は、本来、日本人である在留邦人の日本国籍取得である。
フィリピンの場合、戦前から日本人移民が3万人いたとされ、当時、彼らは農業、マニラ麻の栽培をし、日本人社会も形成されていた。そこへ真珠湾攻撃と時を同じくして日本軍が侵入、男性は軍人として日本軍に徴用された。残されたのは、日本人とフィリピン女性との間に生まれた子供であり、女性だ。そして、彼らが終戦後辛酸をなめる。
日本軍の占領と暴力支配、フィリピン人ゲリラ組織の対日レジスタンスで、子供たちは自分らの立場を失う。反日感情が激しく、多くは山奥に隠れ住み、フィリピン人からは「ハポネ」と差別され生きざるを得なかった。現在、彼らは80歳を超え、父親の存在や名もいまだ正確に知らない。
フィリピン在留日本人問題を手懸けた、弁護士河合弘之も1944年生まれの満州引揚者で、終戦後、帰国するが本人は餓死状態、弟は餓死という悲劇を体験している。
河合弁護士は、背広姿で暑いフィリピンのジャングルに分け入り、在留日本人の聞き取り調査をするのが、冒頭の場面だ。貧しい身なりの高齢の残留日本人(女性たち)は、ほとんどが日本語を話せず、農業で細々と暮らしを立てている。河合弁護士は、本来、中国の満州(中国東北部)に住んでいた日本人残留孤児問題にかかわっており、2次的にフィリピンを扱うようになった経緯がある。 
  


人間の切り捨て

 中国、フィリピン両国の残留者の希望、あるいは目的には違いがある。フィリピンの場合、子供たちは父親が日本人であり、父の国の国籍獲得を強く希望する点が中国残留者と異なる。中国の場合は、満州開拓団問題などがあった。彼ら農民移民は、敗戦前、日本本土から送り込まれ、それが1942年の満州開拓第2期5カ年計画要網である。それにより100万人の開拓民と13万人の青年義勇軍を満州へ送り出した。
国家の目的は「満州農業の改良および増進促進」であり、食糧増産を意図していた。この法律を前に、国家予算の4分の3を占める軍事費を捻出するために「国家総動員法」(1938年)を発令した。日本国の疲弊のための物資統制であり、日常生活は配給制となり、国民はコメの代わりにサツマイモを配給され飢えを凌(しの)いだ。
この法の真の趣旨は、ひと言でいえば国民の口減らしで、多くの日本人を開拓の名で国外へ捨てた棄民(きみん)政策であることは間違いない。ここで、多くの見捨てられた日本国民が生じ、さらに、その日本人は、先住民たる満州人の農業の根幹である土地を奪う結果となった。



フィリピン女性の就籍

 
第1次世界大戦後、欧州系移民に代わり、南米、フィリピンへの日本人移民が激増し、当時のフィリピンにも3万人の日本人が渡る。
フィリピン人の間には、日本軍の圧政による反日感情が広がり、抗日レジスタンスが発生。さらに、日本軍自身による自国民の棄民化政策により、無国籍化し、多くの国籍のない在留日本人が増える。フィリピン女性と結婚した日本人男性は日本軍に徴用され、そのまま日本へ強制送還となり、残されたのはフィリピン人女性と子供たちである。
彼らの窮状に手を差し伸べたのが、中国在留孤児帰国事業に、民間人である河合弁護士をはじめとする多くの手弁当の、日本人を中心とする個人や有志(お上ではない)のグループであった。残された女性の父親は日本人移民であり、彼女たちの最大の望みは、父の国、日本の国籍を得て、就籍することであった。



中國残留孤児

 開拓民として中国へ渡った日本人の数は、フィリピン移民を大きく上回るもので、多くの在留孤児を生み出した。満州は日本軍の大部隊、関東軍が支配し、日本からの移民たちは満州人を蹴散らかし、彼らの土地を略奪し、傀儡(かいらん)の満州国家まで樹立し支配を徹底した。
1945年の敗戦(中国、韓国では「解放の日」と呼ぶ)後、在留邦人の支配の頂点に君臨した関東軍は早々と撤退し、ここでも、女性、子供たちが置き去りにされた。
国民を守るはずの軍隊が真っ先に姿を消す行為は、三上智恵の749ページに及ぶ労作『沖縄スパイ戦史』(集英社新書)に描かれる世界と同じ光景が展開されている。特に、敗戦直前に参戦したソ連軍による日本人女子への白昼公然の性的暴行事件は、歴史の汚点として記憶されるべきである。




捨てられた人々

 敗戦受諾の「ポツダム宣言受け入れ」(1945年8月14日)の中の一節に「居住民はできる限り現地に定着させる」があり、在留邦人は見捨てられた形となる。「自国民の保護は、国家の根本的義務」とする理念とはほど遠い。
関東軍は一番先に帰国し、一般の在留邦人は後回しとなる。男性は日本軍に徴用され、残された女性、子供は大変な苦労をしたという引揚者の話は、今でも伝えられている。
自国民を守らぬ、昨日まで威張り散らしていた軍人は、住民を守る意思が全くなかったと、言い切ることができる。国民を平気で棄民化するのだ。権力は上に、災渦は下に流れる構造だ。




手を差し伸べる人々

 カメラは中国、フィリピンに入り、残された人々の証言を撮り、集め、名簿の作成の大仕事に携わる。膨大な作業を民間のボランティアの人々はフィリピンの山奥、そして中国孤児に関しては、生活難の帰国孤児に密着する。
数的に多い中国残留孤児は、日本へ帰国後団結し、より良い生活保障を求め訴訟を起こす。陣頭に立つ河合弁護士らの努力もあり、裁判に勝利し、一歩前進する。
中国の人々は外から見ていても連帯意識が強く、グループに芯(しん)をしっかり据えている。しかし、悩みは孤児たちの高齢化と、民間資金だけの援助活動の財政基盤の弱さである。
既に原発問題の一環として、再生エネルギーの現状をドキュメンタリーで描く『日本と原発』(2014年)をヨーロッパで撮っている河合弁護士は、裁判闘争の限界を感じていた。仮に裁判を起こしても、判決が出た時しかメディアは報じず、問題意識が広がらぬもどかしさから、映画と言う方法論の有効性を考えたと製作趣旨を語っている。
本作は怒りを触発する作品であり、日本人の持つ「他人の不幸を見て見ぬふりをする」体質と、アジア人を下と見る日本人の国民性への批判となっている。戦後未処理問題解決の、優れて啓蒙的なドキュメンタリーである。
「忘れもの」は拾わねばいけない。われわれ日本人に大変重い問いを突き付ける1作である。






(文中敬称略)

《了》

2020年7月25日よりポレポレ東中野ほか全国順次公開

映像新聞2020年7月27日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家