『スパイの妻』
見る側を引き入れる「軍司ミステリー」
謎を散りばめて巧妙な劇進行 |
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黒沢清監督作品では一番の出来と、筆者が推奨する『スパイの妻』(2020年/濱口竜介、野原位、黒沢清共同脚本、115分)が公開される。戦時中の軍部諜報(ちょうほう)機関と、日本の軍国主義に批判的な民間人との虚々実々の駆け引きが興味をそそる。本作、あえてジャンル分けすれば、「軍事ミステリー」のカテゴリーに入れることができる。シナリオ構成の堅固さが作品に強い骨格を与え、見る側をグイグイと引き入れる力がある。
黒沢清監督はカンヌ国際映画祭で注目され、40本近い作品歴を誇っている。1990年代からの彼の作品傾向は不条理志向が強く(特に初期)、この1本と極めとなる作品がなかった(これは筆者の私見だが)。
しかし、本作『スパイの妻』では一皮も二皮もむけ、確実に大監督の仲間入りを果たした。作品としての密度が違う。今までにはない社会性が加味され、作品自体が大きくなっている。
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聡子(左)と優作(右)
(C)2020 NHK,NEP,Incline,C&I ※以下同様
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尋問中の優作(左)
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船倉の聡子
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有馬温泉で、文雄(右)と聡子(左)
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泰治(左)と聡子(右)
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家庭での優作(左)と聡子
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倉庫内で優作(右)を問い詰める聡子(左)
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神戸市内で脱出用の貴金属を漁る2人
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優作(左)と文雄(右)
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聡子
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堅固な脚本構成が作品に強い骨格
共同脚本の濱口竜介、野原位は、黒沢監督が教授を務める東京芸術大学大学院の映像研究科映画専攻(横浜市)の出身で、いわば黒沢監督の弟子筋に当たる。概して、東京芸大出身の若手監督作品は、観念的で小難しく、個人的し好のコネクリ(理屈っぽくいじり回すこと)に陥っている。その上、日本映画の面白さを削ぐところがある。
そこへ『スパイの妻』の登場で、今までのヌルさががらりと一変される。3人の共同脚本の構成が実に良くできている。不可解な謎を多数散りばめ、ハナシを展開させている。この謎を点としてつなぎ合わせたのが本作である。よほど頭を絞った結果であろう。見事だ。
本作を特徴づけているのは、舞台を東京やほかの都市ではなく、異国情緒漂う神戸に設定したことだ。美術も戦前の神戸を再現し、港町の華やいだ雰囲気を伝えている。
時代は太平洋戦争初期、主人公の福原優作(高橋一生)は貿易会社を経営し、妻の聡子(蒼井優)と2人暮らし。自宅は、市の郊外とおぼしき豪邸。すべてが洋風、つまり、いすの暮らしで、畳の上の生活とは趣きが違う。
食事は洋風、飲み物は日本酒ではなくウィスキー。自宅での優作は着物に着替えず背広姿、聡子も洋装で押し通す。運転手付き自家用車も大型の輸入車。絵に描いたような洋風の生活である。
ここで、作り手の意図は、異空間における人間模様の描き上げであることが分かる。
さらに、この雰囲気を一層盛り上げるのが、冒頭場面である。場所は神戸生糸検査所、多分、輸入される生糸が運び込まれる神戸らしさの狙いが込められている。そこに憲兵が突然踏み込み、スパイ容疑で1人の太った外国人を連行する。ここで国際色がにじむ。
モダンで神戸らしい生糸検査所を最初に登場させ、この時世に背を向ける一群の人々の設定は、なかなかのアイデアだ。
まずは津森泰治(東出昌大)。優作の妻、聡子とは幼なじみであり、福原優作邸へも遊びに来る。彼は、聡子に気があり、わざわざ憲兵分隊長として神戸に赴任する。しかも、憲兵の立場にあり、優作の天敵となり、彼らの動静を探る任務を担っている。
脱線だが、泰治役の東出昌大は、昨今の週刊誌をにぎわす時の人である。その彼の軍服姿が実に決まっている。映画界では、女癖の悪い役者ほど芝居は面白いとする説があり、まるで彼の話のようだ。
そして、福原物産勤務で身内の文雄(坂東龍汰)。彼は優作と志を同じくし、優作の個人アシスタントの役を務める。福原一家は、津森泰治と憲兵隊の監視のもとにおかれる構図となっている。
ある時、突然、優作が聡子に「戦争が激しくなる前に見てくる」と、動機の詳細を語らず満州に渡る。彼は文雄を伴い撮影機材を携行する。優作は映画マニアの設定で、この時のフィルムが後の展開の鍵となる。
この撮影機材、深読みすれば、普通の人を装うカモフラージュのためかもしれない。1人、留守宅で過ごす聡子は、1カ月以上夫の帰りを待つ。この優作たちの満州での行動も大きな謎だ。
この満州行きの意味が分からず、ただただ優作と過ごすことを望む彼女は、彼の帰国の一報を受け神戸港へ飛んでいく。愛する聡子との再会を喜ぶ優作だが、挙動がおかしい。聡子の知らぬ女性に目くばせをし、「あっちへ」と合図を送る。これが次の謎である。
目的を曖昧(あいまい)にしたままの優作と文雄の満州行き。帰りに優作は聡子の知らぬ、草壁弘子(玄理)なる女性を連れ帰る。この彼女の存在が新たな謎を生む。満州で彼らの見たもの、手にしたものが何であるかが、見る者の興味を引き付ける。シナリオが冴(さ)え、謎の小出しがうまい。
結局、弘子は何者かに殺されるが、恐らく何らかの秘密を握り消されたものと容易に推測できる。
福原物産での忘年会が、局面を一挙に広げる。帰りの土産に優作は社員に砂糖と餅を配る。ここには物不足の時代相が浮かび上がる。戦中、日本国民は砂糖不足に悩まされ、甘いものに飢えていた。
この席上で文雄は、退社して有馬温泉の旅館にこもり、長編小説を執筆すると宣言する。この動機も満州行きと絡んでいそうで、やはり謎なのだ。
忘年会の後、優作は米国行きを提案。この突然の発言に、聡子は未だ見ぬ外国へ行けるとウキウキする。しかし彼女は、弘子の死について、憲兵隊から尋問時に知らされ、優作と彼女の関係が明らかになる。
そのことを夫に問いただすが、知らぬ存ぜぬの一点張り。すべてを不審に思い始めた彼女は、有馬温泉に向かい、文雄に事情を尋ねる。彼は優作あての茶封筒を渡す。いよいよ謎の解明だ。
茶封筒の中身は人体図であり、満州の731部隊の生体実験と細菌兵器についての研究ノートである。聡子の問いに優作は、これは国際政治の場で発表する資料と答える。国家にとり不利益な真実を発表することが正義なのかと、聡子は彼に詰め寄る。
しかし最終的に彼女は、正義を捨てても「スパイの妻」と言われても、優作とともに幸福を追い求めることを、不本意ながら納得する。
この場面、演じる蒼井優の、意志の強さを貫こうとする女性の強さが炸裂する。それは、彼女の優作への愛の証でもある。また、満州から持ち帰ったフィルムは、731部隊の生体実験を写したものであった。
お国の極秘を握り監視される身となった優作は、米国亡命を画策する。聡子も同行するものの、2人は別行動をとる。彼女は、優作の手配で貨物船の船倉に隠れ1人で旅立つはずが、土壇場で泰治率いる憲兵隊に拘束される。
聡子は泰治に、なぜ出国が分かったのかを聞くと、「通報があったからだ」との答えが返ってくる。通報の主は優作と見抜いた聡子は、「お見事」と絶叫する。一方、優作は極秘資料を手に、小舟での密航に成功する。作中では断定しないが、これらは優作の策略どおりだったようだ。ここが最後の謎となる。
1つの国家秘密を巡る人間模様がドクを持って描かれる。信頼する夫や友人の裏切り、無に帰する聡子の愛情と美しきもののすべての喪失、権力の強大さと人間の醜さが強調され、人間のちっぽけさを際立たせている。
謎をぶつけながらの巧妙な劇進行で、黒沢監督は人間の否定的一面をえぐり出したのである。黒沢流の人間観であろう。
今年のベスト作品だ。
(文中敬称略)
《了》
10月16日から新宿ピカデリー他全国ロードショー
映像進軍2020年10月5日掲載号より転載
中川洋吉・映画評論家
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