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『さくら』
西加奈子の同名小説を映画化
1つの家族を通して描く人間ドラマ
個のぶつかり合いが愛の形に昇華 |
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『さくら』(2020年/矢崎仁司監督、脚本・朝西真砂、119分)は、これまでとは一味異なる家族の姿を描いている。原作は西加奈子の小説『さくら』〈小学館〉で、みずみずしい10代の少年・少女の日常を通し写る世界が広がり、味わいがある。他方では、愛情、憎悪、離別が描き込まれ、普通の家庭でも起こり得るさざ波、振動、激動が見る者の心を揺らす強さを持つ作品だ。
物語の舞台は大阪、関西弁の世界であり、トゲトゲしさがない。辛辣(しんらつ)なことを言っても、ケンカにならない特徴のあるこの生活言語が、全体を柔らかく包み込んでいる。
作品の芯となる長谷川家は、父親・昭夫(永瀬正敏)、母親・つぼみ(寺島しのぶ)と3人の子、長男・一(はじめ/吉沢亮)、次男・薫(北村匠海)、長女・美貴(小松菜奈)の5人家族。タイトルの「さくら」は一家が飼う白毛の雑種犬の名前であり、その賢いサクラは一家の観察者たる役割を担う。
絵に描いたような幸福な家庭がまず登場。その家族にさまざまな厄介ごとが振りかかり、家庭が段々と形を変え、登場人物たちのもろもろのドラマが覆いかぶさる作りである。
本作の良さは、ひと言でいうなら、原作の面白さである。昨今の日本映画では何が言いたいのかはっきりしない、詰まらない作品が散見される。この詰まらなさは原作に問題がありそうだが、この辺りの論議は文学に通じた方々にお任せしたい。
西加奈子の手になる原作の『さくら』(2005年)は、累計55万部発行のベストセラー小説である。
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3兄弟妹 (C)西加奈子/小学館 (C)2020「さくら」製作委員会 ※以下同様
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さくら(中央)
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長谷川一家
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薫
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美貴
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さくらと一家
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薫(右)と環
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一(はじめ)と薫
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本作は全体に食事場面が多い。食卓とは、コミュニケーションの場ととらえている。そこから出てくる個人の生き方が、物語全体をつないでいる。
例えば、子供たちがまだ小学生の時、次男の薫が、両親の夜の営みで発せられる声を不思議に思い、母親へ質問をぶつける。母親は「子供はそんなことは知らなくてもいいの」と隠し立てせず、諄々(じゅんじゅん)と性について語り、子供はどうして生まれるかまでユーモアを交えて説明する。この性講話には、自然で説得力がある。
母親は「お父さんとお母さんは好き同士で、互いに裸になり抱き合うの。そして、ペニスの中の暴れん坊がお母さんの体内に入り込む。そこで、お前たちが生まれたの」とやさしく理路整然と子供たちに語って聞かせる。立派な性教育である。
薫は学校帰り、同学年の環がうずくまっているのを見て、声を掛ける。彼女は「足をくじき歩けないので、家まで送ってほしい」と頼む。さして親しくない同級生だが、気の良い彼は彼女を送り届ける。そして、彼女に言われるまま家へ上がり、彼女の部屋に通される。後は環の1人舞台。下着姿になった彼女は彼をベッドへ招き入れる。薫の童貞喪失である。
薫は彼女の度胸の良さに驚きつつも、初めての性の快感を味わう。環は学年一の秀才で、周囲からは「ゲンカン」と仇名(あだな)されている。しかし、その仇名を全く気にせず、校内で色付きのレターをほかの男子生徒の前で薫に渡す。
封筒の中身は、カラフルなコンドームである。ここで周囲の男子たちは、薫が「ゲンカン」の餌食になったことを知り、はやし立てる。環にとり性は楽しむもので、他人から何を言われてもどうでもいいことなのだ。
ここに、矢崎監督世代のオジさんの考え方を一刀両断に実力で打ち破り、閉鎖的な観念を真っ向から否定する爽快(そうかい)さがある。
女の子が自身の性衝動を実行に移すのに何のためらいもない。環のペースに乗せられ、何がなんだか分からず、青春の通過儀礼に戸惑っている。女の子に持って行かれた、男の子のぼうぜんたる姿には笑わされる。
長女の美貴は、学友の女の子と恋愛関係に陥り、公然と行動する。この2人は、やたらスカートの長い不良番長グループにいちゃもんを付けられるが、逆に彼女らを実力で粉砕する。これも痛快な一幕だ。本作の狙いからは、作り手の現代若者の性の在り方が感じられる。
レズの一方、ゲイも登場する。ある時、1通の女文字のレターが父親・昭夫のもとに届く。てっきり浮気と思った母親・つぼみは、亭主をつるし上げ、相手について詰問する。仕方なく昭夫が、学生時代のアルバムから指差したのは、1人の男子生徒で、家族皆大笑い。
その彼は今、「サキ子」と名乗るゲイバーのホステスで、ジェンダーにとらわれない生き方をしている。その後、昭夫の親友として、この彼は苦境に陥った長谷川家の人々に何くれとなく手を差し伸べる、優しい人間なのだ。サキ子の設定は、ストーリーに、揺れる家族の気持ちをなだめる役割を担わせ、そこが味わい深い。
物語は次男の薫と美貴を中心に回るが、彼らの兄・一の存在が大きな波紋をもたらす。彼は、弟、妹の絶対的ヒーローであり、高校では野球部の花形選手で、女高生の憧れの存在であった。美貴はこの兄が大好きで、レズ関係と別に、彼には心情的な近親相関と思われる気持ちを抱いている。
この兄が、ある時タクシー乗車中の事故で半身不随となり、さらに顔の半分に酷い傷を負う。今までヒーロー扱いで、優れた人柄の彼は前途を悲観し、自暴自棄になる。美貴はこの時、一生兄の面倒を見る決意をし、進学せず家に残る。
その兄は自死を遂げる。美貴のショックは大きく、葬儀の時、遅れて現われ会場を徘徊し、座っては失禁と、普通の精神状態ではない。そこに父の友人のサキ子が彼女に手を貸し、その場を何とか収める気遣いを示す。
兄は事故前から、恋人のカオルが遠くへ引越し離れ離れになり落ち込み、事故後は毎日彼女からの手紙を心待ちにしていた。その手紙、実は美貴が全部隠していたことを薫に告白した。愛する兄のためと思う反面、美貴の独占欲から発した行為と解釈できる。
一は亡くなり、薫は東京の大学に進み、父の昭夫は突然家を出て音信不通。家は、サクラと母娘だけの女世帯となる。皆に愛されるサクラは、一家の浮き沈みをじっと見据え、長谷川家にとってなくてはならぬ存在であり続ける。
明るい母、気を取り直し前へ進もうとする美貴、遠くから2人を見守る薫は、兄の死により不幸に向き合う思いをさらに強める。しかし、泣いてはいられないのだ。
この家族史ともいうべき本作、もちろん愛でつながっていることは確かだ。しかし、それ以上に、家族の個がぶつかり合い、それが愛の形へと昇華するところに本作『さくら』の価値がある。
重傷を負った一は、なぜ、よりによって自分のところに悪送球が来たのかと嘆く場面がある。残された人々は、自分たちの将来を見つめ、悲しむまいと、心を新たにする。
3人兄弟の芝居も重すぎず、時にユーモアさえ感じさせる。両親も愛にあふれる存在で、優しく子供たちを包み込む。生きることの愛おしさを感じさせる1作だ。
本作には矢崎仁司監督の人生録の総てが詰め込まれ、その中の若者と性についての考察。納得がいく。
(文中敬称略)
《了》
11月13日全国公開
映像新聞2020年10月26日掲載号より転載
中川洋吉・映画評論家
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