『花束みたいな恋をした』
鋭い観察眼で捉える坂元裕二の脚本
生きる難しさが伝わる青春もの
若い男女のホロ苦い恋愛描く |
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日本映画の新作『花束みたいな恋をした』(2020年/土居裕泰監督、坂元裕二脚本、124分)は、一見、タイトルからして少女小説の印象を与えるが、なかなかどうして歯応えのある、ちょっとほろ苦い青春ものだ。物語が2人の若者の恋愛を扱い、共感すると同時に、身につまされる思いもする。これを2人の若い俳優、菅田将暉と有村架純が、同年代の若者を演じるが、この2人の役柄もハマリである。
本作、まず第1に取り上げる点は、脚本の良さである。日本映画の父、牧野省三(1878−1929年)の言ではないが、映画においては、1スジ(脚本)、2ヌケ(映像)、3動作(演技)が三大原則とされている。つまり最も重要なのは「スジ=フィクション」であり、映画においてハナシが面白くなければ客はついてこない。
このフィクションに力を入れているのがハリウッドであり、とにかく、見せる点において米国が断然優れている。資本主義の同国において、金を払って見る観客を手ブラで返すわけにいかぬとする考えだ。よって、ハリウッドの映画製作では、監督ではなく、プロデューサーが全権を掌握し、編集権は彼らの手にある。
このフィクションを第1に製作されたのが、本作『花束みたいな恋をした』でもある。とにかく、フィクションとして見せてしまう腕力が脚本の坂元裕二にはあり、そこを楽しみに見てもらいたい。
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麦(左)絹(右) (C)2021『花束みたいな恋をした』製作委員会 ※以下同様
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麦(左)絹(右)
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麦(左)の職場
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2人で本を読み入る
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麦
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絹
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下宿の麦
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京王線車内の絹
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物語の半分以上が、2人の馴れ初めに費やされ、数々のエピソードがめっぽう面白い。舞台として、ファミレスがメインに据えられ、地理的には、京王線沿線の明大前、調布、そして飛田給。この界隈に映画人が一番多く住んでいることからと、容易に想像できる。
出会いのキーワードが「終電車」で、時間を気にしないで生きる典型的な今時(いまどき)の大学生の出会いの切掛けが「終電車」で、時間を気にしないで生きる、今どきの典型的な大学生の出会いのきっかけとなる。面白おかしく過ごすうちに終電を逃した若い2人は、始発を待つ。
真夜中に第2のキーワード「ファミレス」、そして「居酒屋」でつなぐ。この間に交わされる2人の会話のひねりに、目をむく面白さがある。脚本の坂元の、若者に対する観察眼が冴(さ)えている。オジさんが凝視する視点である。
最初の出会いのイヤホンのハナシからしておかしい。主人公は、2組のカップルで、それぞれのテーブルで何か議論している。論点は、イヤホンのR(右)とL(左)とは違う音楽ということ。普通、考えもしない発想だ。1組の男、麦(むぎ=菅田将暉/彼の一見まじめ風の芝居におかしみがにじみ出ている。ちょうど、いつも何かおかしい豊川悦司の芝居のように)が熱弁を振るっている。
近くでは、もう1組の女性、絹(きぬ=有村架純)が、やはりイヤホンの音楽にイチャモンをつけている。両カップルの1人がイラ立ち席を立つ。にらみ合う若い2人こそが麦と絹である。同じ結論なのに、席まで立って論戦を吹っ掛けようとする2人。ここが珍妙な最初の出会いだ。
主人公のネーミング、男性は麦、まるで女の子のような名前、女性の絹は、何か古めかしい。作り手のアイデアであろう。これがまた、何か変。
その後、会うこともなく過ごしていた2人は、それぞれ外出した帰り際に寄った明大前で終電を逃す。そこから2人の本格的交遊が始まる。
まずは喫茶店。目の前の席に世界的アニメ作家、押井守が座っている。アニメに詳しい現代っ子は、生き神様を見て天に昇る気持ち。
その後、2人は初めて自己紹介、おかしいのは現在読んでいる愛読書を互いに差し出し、熱い文学論議。筆者にとっては知らぬ作家名ばかり。知っているのはわずか小川洋子だけで、全くの別世界。しかし、ネット頼りの若者たちがこれほど読書をすることは、筆者にとり不思議の限り。こちらは井上光晴、松下竜一で止まったままなのに。
2人は次々と共通点を見出し大いに盛り上がり、一気に距離を縮める。調子に乗る2人、真夜中の雨中、傘もささず甲州街道を調布の麦の下宿まで語り合う。
下宿で麦は、絹の濡れた頭髪にドライヤーをかけ乾かしてあげる。このドライヤーが後に、絹の忘れがたい思い出となる。お腹がすき、麦が焼きおにぎりを3つ作ると、絹は2つ平らげ、眠り込んでしまう。"色の香"は皆無である。
そうこうしている内に、始発の時が来て、絹は飛田給(京王線)の自宅へ朝帰り。娘の様子を見た出勤前の父親は、叱る代りに「絹はまた朝帰りだ」と大声で母親に知らせる。絹の一家は相当オトボケである。絶妙な出だしだ。
デートを重ね、2人は同棲。新居は調布駅から徒歩30分、多摩川沿いのマンション。大学を卒業しフリーターとなった2人は、夜バイトの終わる時間に駅で待ち合わせ、30分の川辺を、コーヒーを飲みながら帰宅。幸せの頂点の2人である。
イラストレーター志望の麦は、3コマ1000円の屈辱的バイト生活、何かの資格を取った絹は会社員となり、2人の境遇が一変。以前のような、仕事終わりに2人でおしゃべりしながら帰る時間は消滅。2人の間は少しずつ疎遠となり、家での会話も減る。
2人の時間は、麦の会社の業務に取られ、さらに、徐々にサラリーマン化していく彼に、絹は「こんなはずではなかった」と愛想を尽かす。
ある日、絹は自分の好きなことをしたいと、相談なしにイベント会社に転職。麦は激高、口論となる。「仕事は責任であり、遊びではない」と聞いた風なセリフを麦は口にする。この言葉は、世の若い人がオジさん上司から、吹き込まれたものであろう。責任を取るべきは社長はじめ上層部である。新人社員に押し付けるのは、世にはびこるパワハラだ。
映画でも絵画でも、それだけで食べていける人はほんのひと握りであり、筆者の知る映画関係者でも「一体、どのように飯を食っているのだろう」と思わす人間が多い。本作、一応青春ものの体裁を保っているが、もっと深刻な問題を提起している。一言でいえば「映画では食えない」。だから志ある若き人々が四苦八苦の思いをするのだ。
世には、多くの映画、絵画、デザイナー、イラスト志望者がゴマンといる。大体、30歳前後になると、まず将来を考えるのが普通だ。希望の職種に就けず、サラリーマンへ転身し、安定収入に頼ることになる。まさに、本作のカップルはこの壁に突き当たり、挫折ではなく、方向転換を図ったのだ。現実的選択とも言える。
この新しい方向性が、カップルの思い描く青春像との間にすき間が生じ、2人の生活は破綻する。苦いが、これが現実であろう。こうして愛しながらの別れが生じ、「花束みたいな恋」との決別を告げねばならぬ。
本作の一番言いたいところは、生きる難しさとホロ苦さであり、リアリストの視点である。一歩、突っ放して眺めるなら、「次を考えるべく」との結論に落ち着く。訳知り風なご託を並べれば「セ・ラ・ヴィ(これが人生さ=フランス語)なのだ。だが諦めてはいけない。これからもっと長い人生があるだから。
一見、砂糖菓子風の包装の中身は甘くない。しかし、生きることは、前に進むことである。輝くばかりの青春とほろ苦い別れ、ハードルは決して低くないが、越えねばならない。
(文中敬称略)
《了》
2021年1月29日からTOHOシネマズ日比谷ほか全国公開
映像新聞2020年12月28日掲載号より転載
中川洋吉・映画評論家
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