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『サンドラの小さな家』
幼い娘を育てる母親が自ら家を建設
女権向上の意識を明確に示す
アイルランド特有の助け合い精神

 労働者階級の連帯を描き、英国の名匠ケン・ローチの世界を彷彿させる『サンドラの小さな家』(以下『サンドラ』、2020年/フィリダ・ロイド監督、アイルランド・英国、英語、97分/原題「herself」)は、気分良く見られる作品だ。主演のクレア・ダンによる企画・脚本の本作は、サンドラ役の彼女がけん引車となって作品を引っ張る。その本気度・熱量は、現在の韓国映画と並ぶものがある。

サンドラと友人たち  (C)Element Pictures, Herself Film Productions, Fis Eireann/Screen Ireland, British Broadcasting Corporation, The British Film Institute 2020  ※以下同様

建築現場、エイド(左から2人目)、サンドラ(中央)

DV夫との対立

サンドラ、娘、エイド

建築現場でのサンドラ、ペギー(右)

ペギー(右)

サンドラと娘

建築現場

完成祝い

娘たち

段ボールのお家

作品の発端

 主役のクレア・ダンは、主として舞台で活躍する今年34歳の中堅女優で、脚本の才もある。『サンドラ』誕生の発端は、一時滞在していたニューヨークから始まる。アイルランドの女友達からの電話で、彼女がホームレス状態に陥ったことをクレアは知る。クレアは真っ当な感性の持ち主であり、その女友達が家を見つけられずにいる状況は絶対に間違っており、社会のシステムが崩壊していると強く感じる。
善良な人は多いが、善いことを実行する人間は少ない。これが普通の現象である。しかし、彼女の反応は異なる。クレアは、両親が住むダブリン(アイルランドの首都)の実家の一部屋を10カ月の間提供したのだ。
この出来事で、彼女の正義感に火が付き、起こした行動が本作『サンドラ』の脚本である。この脚本を高く買った女性監督フィリダ・ロイドが、監督を引き受けた。その条件は、クレアの主演である。1人の女優が演技と脚本の2役をこなす、珍しい試みが実現する。 
  


序章

 本作は、主人公のサンドラが夫のDVに耐え兼ね、2人の幼い娘を秘かに連れ出し家出をするところから始まる。舞台はダブリンである。
タイトル・バックに、ぼやけた3人の姿が写し出される。3人とはサンドラ親子で、母親のメーキャップを手伝う、あるいはお化粧に興味津々の幼い娘たちが、ママのお化粧を邪魔する場面ともとらえられる。
この場で重要なのは、クレアの左目下の黒いアザであり、それを彼女はメーキャップで隠している。このアザは生まれつきで、彼女のトレードマークでもある。終盤、子の親権を巡るDV夫との裁判で、アザを隠さず、素のままで法廷に立つ姿は、彼女の強い意志の表れだ。



サンドラの住まい探し

 
サンドラは、ある元女医の家でメイドをしながら、パブのウェイトレスを掛け持ちし、家計の足しにしている。生活的にはなんとかなるが、問題は住いで、これは難問。ケン・ローチ作品でも顔を出す、労働者階級の人々の大きな悩みである。
福祉事務所での公営住宅の申込番号は600番台。急の必要性を満たすには程遠い状況である。だが、宿なしの人々のために、女性支援センターからホテルの一室を何とか斡旋してもらう。
ヨーロッパには福祉制度以前に、ホームレスは死なせない社会的黙約がある。筆者の経験であるが、1967年にパリ留学の際、ホテルは満室、西も東も分からぬ留学希望者は途方に暮れるばかり。その時、安ホテルの太った意地の悪そうな女性オーナーは「表で凍えさせるわけにはいかない」と、どうにかして部屋を提供してくれた。
むざむざ人を死なせない、社会的な約束事としか思えぬ好意である。女性支援センターの行動も同様に思えた。



寝室でのエピソード

 ある夜、娘を寝かしつけているとき、彼女が学校で聞いてきた話を始める。それは自力で家を建てるという内容で、この話がサンドラに大きなヒントを与える。突如、彼女は自分でもやれると思い立つ。
しかし、大工の技術、手伝ってくれる友人たち、そして土地もお金も何もない。ないない尽くしでの思い付きだが、落語のネタを逆に取り、「女の一念、岩をも通す、男の一念、豆腐も通さず」とばかりに、猛進する。
くぎを求めて、今まで足を踏み入れたこともなかった金具屋に寄る。ド素人で建築の知識のひとかけらもない彼女に対し、若い男性店員は、馬鹿にしきった応対。それを見ていた、後に並んでいた中年男、エイド(コンリース・ヒル)が、「その態度はないだろう」と強くたしなめる。
エイドは土木建築業の専門家で、サンドラは渡りに船とばかりに助力を仰ぐ。しかし、週中は仕事がある彼は、なかなか承知しない。それでもサンドラは粘り、週末だけ彼を引っ張り出すことに成功する。彼女の必死の懇願が功を奏した形だ。



ペギーの侠気

 次いで、願ってもない朗報がもたらされる。メイドで働く家の女主人ペギー(ハリエット・ウォルター)は、軍医の経験がある元医者だが、腰が悪く、今では人手を借りねば動けない状態である。体は不自由だが、大邸宅に弁護士の夫と住む彼女は裕福で、サンドラの母親とは旧知の間柄である。
ペギーはサンドラにぶしつけと思えることを口にする。「いつまでも掃除婦をやっているつもりか」と、きつい言葉を投げ掛け、サンドラの自尊心に火をつける。そのペギー、大変な侠気(おとこぎ)の持ち主である。
別の日、サンドラがペギーのPCを無断で使用し、建築関係の検索をしたことをペギーは知っており、またきつい言葉を投げる。そこは度胸のいいサンドラ、「油断したか」と一向に悪びれない。すべてはサンドラに負担を掛けまいとする、ペギーの心遣いである。
彼女は大邸宅の裏の土地を無償提供し、建築に必要な金銭も返却期限なしで都合する。



建築の共同作業

 ペギーの女だてらの侠気は、作品のハイライトの1つだ。そして、パブの同僚、保育園のママ友、カメルーン人女性など、友達の友達も彼女に手を貸し、エイドの指導のもと、建物は徐々に形を現わす。
ド素人の集団の団結、仕事をしながらお互いへの信頼を高め、それが連帯感へと昇華する。初めは見ず知らず同士が、1つの機能する集団へと変身する。メンバーのすべてがギリギリの生活を送る労働者階級、あるいは労働者の員数にも入らない、その日暮しの貧乏人たちである。



「メハル」

 まさに、ケン・ローチ・スタイルの社会環境であり、気持ちを1つにした非富裕層の連帯感が『サンドラ』の最大の見どころとなる。ここで描かれる人間像がクレアの脚本の大きな狙いなのだ。
彼女の視点は、昔のアイルランドに伝わる「メハル」である。耳慣れない言葉であるが、皆が集まって助け合う精神の意だ。この「メハル」は本作『サンドラ』の支柱でもあり、アイルランド自身のアイデンティティを現わしている。



アイルランドの地

 北海の小国アイルランドは、隣の英国に実効支配された国であり、主食はジャガイモ。ほかの欧米諸国と比べ、決して豊かではない。19世紀中ごろに発生したジャガイモ飢饉(ききん)では、多くの飢えた貧しい人たちが、米国、カナダへ移民した歴史がある。
小麦も米も出来ない土地から得られるのがジャガイモであり、彼らの生命線であった。東欧、北欧、ロシア諸国などジャガイモに頼るのは、冷涼気候の影響であろう。その厳しい気候の中で生まれたのが、助け合い精神「メハル」である。
『サンドラ』では、前向きに生きる女性が中心となり、助け合い精神が日常生活の中に浸透している。共同体の連帯意識が見る者を引き付け、すがすがしい気分を味わわせてくれる。
クレアはインタビューに答え、「希望が欲しい人、人は立ち直れると信じたい人に是非見てもらいたい」と述べているが、彼女のこの発言に作品の意図が込められている。また、サンドラ自身の行動、ペギーの支援を通して、女権の向上の意識がはっきり見られる。
快作である。




(文中敬称略)

《了》

4月2日新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町ほかにて全国公開

映像新聞2021年4月5日掲載号より転載

 

 

中川洋吉・映画評論家