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『きみが死んだあとで』
1967年「羽田闘争」での活動家に焦点
当時の日本社会の動きを捉える
14人の学生の行動を追う構成

 歴史を50年巻き戻し、日本の社会の動きをとらえるドキュメンタリー『きみが死んだあとで』(2021年/代島治彦監督、ドキュメンタリー、200分)が公開された。
  主人公たちは団塊の世代に属し、積極的にものを言う若者たちであった。彼らの行動を見れば、もしかしたら、このお国にも革命が到来するのではなかろうかと思わす、強烈なインパクトを秘めていた。彼らの強烈な個性を、一瞬でもよみがえらせようとする試みが『きみが死んだあとで』なのだ。


羽田での山崎博昭 (C)きみが死んだあとで製作委員会  ※以下同様

デモ風景

故山崎博昭の兄

故山崎博昭

大手前高校同窓生、佐々木幹郎

山本義隆・東大全共闘代表
故山崎博昭追悼中央葬

シェーでおどける仲間たち

団塊の世代

 この若者たちは、第二次世界大戦後の昭和20年代前半生まれで、親が戦争を体験している。2021年現在、この世代は70歳を超える。
政治的指向の強い青年たちは「全共闘」世代と呼ばれ、主として大学生を中心に、反安保、ベトナム反戦のスローガンを掲げ、権力と対峙した。
その闘争の幾つかを列挙すれば、早大全学スト(1967年)、第一次羽田闘争(佐藤首相の南ベトナム訪問阻止/67年10月8日)、第二次羽田闘争(同首相の訪米阻止/67年11月12日)、東大安田講堂攻防戦(69年1月18、19日)、佐藤首相訪米阻止闘争(69年11月16,17日)といった学生を中心とした反乱が続き、その後、全共闘運動は権力の直接的暴力もあり、下降線をたどる。
外国では、1968年にフランスの「5月革命」が発生、若手労働者たちを中心に体制へ「Non(ノン)」を突き付けるが、7月のバカンスを境に雲散霧消(うんさんむしょう)状態に陥る。
このフランスの運動は社会の人間関係を、縦から横へ軸の転換の契機となる。そして、フランスの多くの活動家は地方に散らばり、行政機関に入り活躍する。1981年には社会党ミッテラン政権が登場するが、その下支えになったのが地方で根を張った元活動家と言われている。 
  


日本の場合、その一例

 個人的な話となるが、筆者は1961年に早大政経学部に入学、クラス最初の学生委員選挙を迎えた。役員立候補した1人が「反帝(反帝国主義)・反スタ闘争(反スターリン闘争)」とぶち上げたが、何も分からずチンプンカンプンであった。活動家の彼は駿台予備校5浪で、全浪連を名乗っていた。この場において、一般学生(いわゆるノンポリ)と活動家の乖離(かいり)の大きさを痛感した。
筆者はノンポリで、反体制志向の持ち主であり、彼らの主張に同調し、1965年の「日韓条約」反対のデモにサークル(早大シナリオ研究会)の友人と一度だけ参加した。霞が関の一角で大勢の機動隊に、呼吸困難になる寸前まで塀に押しつけられた。彼ら機動隊は学生を押し込み、どう喝を何度も続け、デモとは力対力の対決であることを、身をもって知らされた。
その後は、恐れをなし、学内デモにだけ参加と、情けない状態であった。今でも、機動隊(第四機)の力ずくの脅しを思い起こす。



第一次羽田闘争

 
本題の羽田闘争に戻る。カメラは、大阪府立大手前高校の学生中心の闘争に焦点を当てる。大手前高校は、関西では有名な受験校で、京大80人、東大10人、阪大50−60人の合格者を誇り、そのうちの活動家14人の行動を追う構成となっている。
彼らは秀才の一群で、ちょうど、灘、開成の高校生が運動の主導権を握るようなもの。この極め付きの秀才の1人が、羽田闘争で亡くなった京大生・山崎博昭で、18歳の青年だった。周囲の評判は極めて良く、勉強も数学が得意で100点を取るほど。控え目の青年で、1日6時間も勉強をする努力家であった。こういう人間こそリーダーに最適と考えられ、彼の死は、実に「惜しい」の一言である。
もう一方、矛盾する思いとして、一部エリートがけん引する組織は、縦社会、スポーツ団体には極めて有効であることは認める。だが、一般大衆をすくい取る意味では、運動の弱体化につながる恐れもある。



それぞれのインタビュー

 亡くなった山崎博昭の兄が口火を切り、弟について思い出を語り、大手前高校の卒業生を中心に、1967年10月8日の羽田闘争が語られる。タイトルバックに、学生と機動隊がぶつかる、小雨降る羽田・弁天橋上に山崎博昭の遺影を掲げた学生服姿の、やけにトウが立った1人の男性の姿が写し出される。監督の代島治彦である。
画面に映るのは14人の活動家や、山崎博昭の兄の建夫をはじめとする周辺の人々。彼らの大半が大手前高校の同級生である。ここから、各人のインタビューが始まる。
その中には、東大全共闘代表で、世界的な物理学者になれたといわれる山本義隆(大手前高校の先輩)や芥川賞作家、三田誠広がいる。



その他のメンバー

 山崎博昭は、むしろ貧しい家庭出身の子弟で、兄・建夫は「『真面目な人間が、真面目に働いて報われる世界の実現』を座右の銘としていた」と話す。同級の詩人・佐々木幹郎によれば、『カムイ伝』、『忍者武芸帳』(大島渚監督がこの原作を1967年に映画化している)などを掲載する「ガロ」「少年マガジン」「朝日ジャーナル」などを愛読、友人たちと回し読みしたという。
一方、活動としては、「マルクス研究会」を高校の時に立ち上げ、初期マルクスを読んでいる。マルクスものは相当な知識を必要とし、彼らの勉強ぶりは目を奪う水準であった。当時の革新派学生たちの知識のレベルの高さには驚かされる。
大手前組の同学年の女性、向(むかい)千衣子(早大中退)は、学生運動の目的はベトナム反戦(反戦運動、65−73年)と決め、当時学生たちが闘争の場で必ず歌った「国際学連の歌」を50余年後の今日でも、全曲を歌ってみせる。
この歌は闘いの前に皆で口ずさめる、気持ちを高めるタイプであり、闘争の応援歌であった。当時は、60年安保闘争の時に歌われた社会主義・共産主義を代表する曲『インターナショナル』は、ほとんど耳にしなかった。
友人らの証言で、山崎博昭が機動隊のこん棒で撲殺された疑いを口にする者がいた。羽田闘争参加者の1人、田谷幸雄(同志社大出身)もこの殺人は機動隊の暴力と確信している。



羽田救援連絡センター

 学生は完全武装の機動隊と正面衝突し、当然のことながら大勢の負傷者が出る。そのために救援組織が生まれる。羽田近辺の病院を尋ね歩き、費用を負担する活動で、その中心に水戸喜世子がいる。夫が核物理学者の巌(いわお)で、1970年初頭から始まった反原発運動の理論的支柱であった。
巌と同じ科学者の道を進んだ2人の息子は、冬の劒岳で遭難死、息子を失った喜世子は、権力=公安の介在を今もって疑っている。彼女は現在、福島原発事故の「子ども脱被ばく裁判の会」の共同代表として活動する。



闘いの成果

 学生運動は、警察権力の手により完敗を喫するが、それでも自らの行動の価値を見出そうとしている、大手前高校の先輩で、リーダー格の山本義隆は語る。
「自らの力の及ばなさに責任を感じる。得たものは、学生たちの〔俺たちに何かできることはないか〕と積極的に行動したことである。また、街の人々がデモを応援してくれることを実感したこと、当時の時代の変換を、身をもって体験したことは評価できるのではないか」と。
18歳の京大生、山崎博昭の羽田闘争の死は、当時の時代相を表わす、社会現象の1つであることは間違いない。
歴史を映す1本である。




(文中敬称略)

《了》

2021年4月17日よりユーロスペースほか全国順次公開

映像新聞2021年4月19日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家