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『我が心の香港 映画監督アン・ホイ』
香港映画界のベテラン女性監督に焦点
正面から現実と向き合う作家
時代を描き、気付かせる映像作り

 アン・ホイ監督といえば、香港のベテラン女性監督であり、1970年代末から登場した新しい監督たちのリーダー格でもある。この彼女自身と香港映画に焦点を合わせた作品がお目見えする。それが『我が心の香港 映画監督アン・ホイ』(2020年/マン・リムチョン監督・製作、香港、119分、原題「好好拍電影」、英題「Keep Rolling」〈意訳:映画を撮り続けて〉)である。ホイ監督自身へのインタビューをはじめ、ツイ・ハーク、ホウ・シャオシェン、フルーツ・チャン、ティエン・チュアンチュアン、ジャ・ジャンクーら著名監督、俳優ではシルヴィア・チャン、アンディ・ラウなど、そうそうたる面々が彼女について語っている。
 
アン・ホイ監督自身、抜群の知名度を誇るが、その作品が見られることが少ない監督の1人だ。作風はアート系統であり、同世代の監督として、わが国では乗り遅れの感があり、筆者をはじめとして、多くのファンはその点が何とももどかしい。
リムチョン監督の本作では、初期の作品が挿入されるが、ベトナム戦争後の70年代以降の作品は、日本では上映の機会が少ない。派手な商業、娯楽作品よりは、市井の人々の日常を描く作家であるだけに、興行的には難しいタイプに入るのかも知れない。
また、著作権関係が複雑で、その影響か、配給会社もなかなか手が出せない。公開の機会は少ないが、作品の質的高さから映画祭上映では、アン・ホイ作品に触れる人々の数は少なくないはずだ。日本では、『客途秋恨』(1990年)、『女人、四十』(95年)などが代表作とされる。

アン・ホイ監督 
2020(C)A.M. Associates Limited  ※以下同様

自宅でのアン・ホイ監督

ホウ・シャオシェン監督

ジャ・ジャンク―監督

フルーツ・チャン監督

アン・ホイ監督

香港

出自

 アン・ホイ監督は1947年中国遼寧省(りょうねいしょう)鞍山(あんざん)市生まれ、当年74歳とかなりの高齢である。彼女の名は「鞍」に由来している。5歳の時に香港へ移住、以来香港在である彼女を中国人と呼ぶより、香港人と呼ぶにふさわしい。
彼女の母親は大分出身の日本人。18歳の時、大陸に渡った兄を訪ね、そこで知り合った中国人と結婚、アンが誕生する。父親はアンをかわいがり、教養については、学者肌の彼からの影響が大きい。その父親は映画好きで、彼女が今でも思い出すのが一緒に見た名画『哀愁』(1940年)であり、彼が映画的基礎も与えたことになる。
母親とは、当時の中国・香港の反日感情もあり、日本人であることに居心地の悪さを覚え、確執があった。今は母親と同居で、一生懸命面倒を見ている様子が画面からうかがえる。作品の前半は、幼年・少女時代を懐かしむホイ監督が楽しそうに語る姿を写し出している。 
  


香港大学時代

 その後、香港大学に入学。当時の大学同窓によると、勉強は良く出来、試験でも一夜漬けでトップの成績を上げる彼女は、実にイケてた学生であった。大学時代、一に勉強、二に恋愛がイケてたものとされ、ホイ監督は恋愛の方はイケてなく、その分勉強で取り返したといえる。
元来、彼女の祖父や父親は読書人で、彼女の教養の基礎は中国文学にあると、インタビューで語っている。彼女の知識人としての一面は家族のDNAによっている。



留学・映画界

 
学業優秀な彼女は、奨学金を得てロンドンの映画学校へ2年間留学する。旧英領の香港人は概して英語がうまく、俳優も英語が堪能である。
筆者もカンヌ国際映画祭で、海岸沿いのグランド・ホテルの前庭で香港スター、トニー・レオンが英語でインタビューを受けている光景を見て、さすが英語に強い香港人と感心したことを思い出す。最も彼は10代に2年間ロンドンへ留学しているが。



映画界入り

 アン・ホイは留学後、香港へ戻り、武侠(ぶきょう)映画の巨匠、キン・フー監督の助監督を務める。キン・フー監督は「香港のクロサワ」とも呼ばれる伝説的監督。CGのない時代、俳優をロープでつり上げる、空中での時代劇アクションで知られ、『狭女』(1970年)が代表作。
その後、ホイ監督はテレビ局に入るが、テレビの知識は何もないことを、本作で述懐している。テレビ局では、おそらく独学に近い形でドラマを勉強したのであろう。
70年代の香港では、ベトナム戦争の余韻が残り、1978年にはデモが交通を止める事件が起きる。当時のベトナム難民に対する支援のデモである。
香港の巨匠で、香港ニュー・ウェーブの仲間でもあるツイ・ハーク監督は、ベトナム問題を扱うことに驚きを隠さず、彼女の難民への寄り添い方に敬意を払っている。作品スタイルがユニークであることも、ツイ・ハーク監督は指摘している。彼女は70年代の香港映画監督として注目され、同世代の若手男性監督たちの仰ぎ見る存在となる。



香港ニュー・ウェーブ

 このグループは、1970年末から80年代の香港映画の若手作家の草分け存在であり、香港ニュー・ウェーブと呼ばれている。その中の特筆すべき人物がツイ・ハーク監督やアン・ホイ監督である。
それまでの香港映画は、伝統を継続する中国映画に導かれ、北京語によっていた。だが、ツイ・ハーク監督、アン・ホイ監督は香港人が使用する広東語の使用を提唱する。実際、北京語と広東語は全く異なり、彼らが話すときの共通言語は英語といわれる。香港人の言語たる広東語の使用は当然と言える。
彼らの作風を見ると、ロケの多用、同時録音など、フランス・ヌーヴェル・ヴァーグへの傾倒が見られる。


撮影現場

 アン・ホイ監督の撮影現場の話が面白い。現場で、助監督や美術が口を挟むのだが、わが国の撮影現場ではちょっと考えられぬことだ。助監督が監督の演出に口を出せば、「10年早い」と言われ、翌日からは「お休み」となるであろう。
この監督とスタッフの口論はいかにも香港的である。もちろん彼女は闘い、自分の意志を通す。この件に関し、ジャ・ジャンクー監督は「彼女は妥協すべきでない。彼女には才能があるから」と全面支持の姿勢だ。
実際に、香港に赴任したフランス人家族が家庭内で話しているときに、メイドが割り込み、自説を開陳するとのこと。お国柄だろう。
彼女は自作の脚本は書かないことでも知られている。自分で書いて失望することが多いからと語り、優秀な書き手に任せている。
筆者が大映撮影所助監督時代についた山本薩男監督(『白い巨塔』〈1966年〉)、増村保造監督(『陸軍中野学校』〈66年〉)も脚本は書かず、監督として、さして不思議ではない。しかし両監督、撮影前には絵コンテを画いていた。





アン・ホイ監督の姿勢

 若い時は「芸術のために死ぬ」と意気込み、大層なセリフを並べたが、さすが年を重ねると、気恥ずかしさもあり、失笑しながら若き時代を彼女は振り返る。しかし、持ち前の自信は変わらず、他人(ひと)から、「彼女は負け犬ばかりで、描く人間像が暗い」と非難されるが、この描く対象こそ、監督アン・ホイの狙いである。
テレビドラマ制作から映像の世界へ飛び込んだ彼女にとり、初めから「世の中のすべての人が幸福であるはずはない」とする基本的認識があり、ツイ・ハーク監督に言わせれば、「時代を描き、気付かせる映像作りがアン・ホイ自身の世界」としている。見上げた気構えであり、この姿勢で正面から現実と向き合う彼女の作家性を描くことが本作の主要な眼目であろう。
ホウ・シャオシェン監督も「今の世界を写し撮って見せる」と、年齢を重ねる女性監督の感性の素晴らしさに讃辞を送っている。常に負け犬に陥りがちの市井の人々と同じ視線(「目線」はカメラの撮影所用語)を送り続け、香港人であることを自覚し、彼女は映画を撮り続けることを使命としている。
映画には資金が必要であり、現在の香港映画は中国市場を必要とし、商業映画化する現状の中、弱小(低額予算作品製作)プロを拠点とし、他の監督のように、巨匠化しない理由が彼女の映画に対する信念の発露と説明できる。






(文中敬称略)

《了》

11/6(土)から新宿K's cinemaにてロードショー、全国順次公開

映像新聞2021年11月1日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家