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『オートクチュール』
高級ファッションの世界の内側描く
パリ「ディオール」を舞台に
お針子を通して人生の意味を問う

 華やかなファッション、それもオートクチュール(高級既製服)の世界の内側は、誰しもが一度はのぞいてみたい誘惑にかられる。その世界を、著名メゾン・ド・クチュール「ディオール」を舞台に描き出すのが『オートクチュール』(2021年/シルヴィー・オハヨン監督・脚本、仏、100分)である。
 
本作は、もちろん女性を美しく彩る高級ファッションの世界を見せてくれる。その一方、パリにおける人種問題にもかなり詳しく触れ、ファッションの世界に身をおく女性たちの生き方にも視座を据えている。
物語の主人公は、ベテラン女優ナタリー・バイで、美しさと毅然(きぜん)とした立ち居振る舞いで、とても70歳を過ぎているとは思えぬが、彼女はファッションの世界に生きる女性を活写している。

アトリエのエステル(左)とジャド(右) 
(C) PHOTO DE ROGER DO MINH  ※以下同様

アトリエの2人

作業中のお針子たち、(中央右がカトリーヌ)

事務室で、エステル(中央)、カトリーヌ(右)

最後のチェック、エステル(中央)

ショーに臨むマヌカン(中央)

アトリエの2人 エステル(右)、ジャド(左)

ジャドを指導するエステル

パリの2極

 舞台の背景は、パリ8区のディオール本社と、郊外の団地である。パリには旧城壁を利用した環状線があり、その外側を郊外と呼んでいる。
郊外には多くのアラブ人、黒人向け低所得者のための団地(HLM)がある。彼らは、フランス社会では2等国民扱いで、人種差別の対象となっている。そして時折、警察と衝突し、荒れる郊外と呼ばれるが、全員が暴れたり暴力を振るったりする人々ではない。
この2等国民の住民と、華のパリ、シャンゼリゼ大通りの近くの高級ショッピング街、モンテーニュ通りの、ブティックを兼ねた「ディオール」の本社を対照的に描いている。 
  


2人の出会い

 主人公は「ディオール」の"お針子"たちで、そのうちの1人がアトリエの責任者、エステル(ナタリー・バイ)、もう1人が若いジャド(リナ・クードリ)である。ジャドはアラブ人で、郊外の住民。出自の違う2人の出会いは、まず地下鉄の通路で、ジャドがエステルのバッグをひったくることから発している。
郊外の若者たちは、白人の物を盗んでも大した罪悪感は持たず、「ざまーみろ」の感覚で窃盗を働き、ジャドもその1人。遊びの物盗りを友人たちにいさめられ、彼女は渋々「ディオール」へ出向き、直接バッグを返す。
怒り心頭のエステルだが、頭の中で「この娘はオートクチュール向きかも」と思い、警察への突き出しを思いとどまる。ジャドの手つきを見て、エステルは長年の職業的勘に触れるものを感じ、逆に夕食に誘う。
生意気盛りのジャド、仕方なくエステルに従うが、そのぶしつけな態度、反抗的な仕草は変わらない。この夕食で、エステルはデザートを3皿平らげ、若いジャドを驚かす。これが、異次元で生きて来た、年の違う2人の出会いとなる。



アトリエのジャド

 
エステルは、このジャドの指使いを買い、「ディオール」に来ることを提案。その翌日、別にメゾンに入りたいわけではないが、彼女が現れる。
玄関の黒人ガードマンは、若い娘を不審に思い、中へ入れない。黒人とアラブ人、移民を祖先に持つ2人は互いに張り合い、ここでジャドは罵詈(ばり)雑言を並べ立てる。2等国民の意地の張り合いを目の前で見る感じだ。
何とか中へ入り、エステルから仕事を与えられる。生地の裁断でエステルはジャドを試してみる。仏頂面のジャドは、これ以後、エステルに試される毎日を送る。
この、ベテランのクチュリエ(お針子)のエステルと、若い、郊外のツッパリ娘とのにらみ合いがいつまで続くかが、物語の焦点となる。



職場の人間関係

 アトリエでは多くのお針子が働く。その中に新米のジャドも含まれる。ある朝、彼女は上司たるエステルから、首から下げる、針や糸の必要品を入れるポシェットを受け取る。正式なアトリエの一員の証である。
ジャドを試すエステルの2の矢は、休日出勤である。休日出勤は、ジャドにとり思いもよらぬことであり、彼女は拒否。アトリエの一員になったにもかかわらずだ。
そこへ、エステルの後継者、人の善いカトリーヌ(パスカル・アルピロ)がつぶやくように一言、「わたしだったら出て来る」と。誰も傷つけぬカトリーヌの一言に断るわけにもいかず、土曜出勤をのむ。大変うまい口説き文句だ。
もう1つ、アトリエでは毎朝、香水をまく習慣があるが、ある朝、その香水瓶が消えている。それを見て、エステルはジャドの仕業と見当をつけ、翌朝の香水まき当番にジャドを指名。彼女に恥をかかせぬ計らいだ。
土曜出勤の件といい、香水の件といい、目に見えぬおとこ気がある。フランス映画では、このような浪花節を思わす場面に時折遭遇する。粋な光景だ。



エステルの事情

 ジャドは初日に、エステルに誘われ、気まずい夕食をご馳走になる。その時、エステルがデザートを3皿取り、不審がったことを思い出す。甘い物が大好きなエステルは、甘味摂取過多で糖尿病にかかっているのだ。
彼女はシングルマザーで、娘とは離れて暮らし、音信不通状態。彼女自身は、娘に出ていかれ、それが孤独をもたらせている。それを紛らわせるため、甘味摂取過重に陥る。さらに5カ月後には定年を迎えることもあり、彼女の孤独感は深まる。




ジャドの事情

 柄の悪い郊外っ子ジャドも訳ありだ。彼女は、母親の病気でヤングケアラー状態。バッグのひったくりや香水の失敬で、うっぷん晴らしをしている。ジャドの役作りはオハヨン監督の体験に基づくものである。
彼女自身、郊外出身で、再婚し連れ子を大事に育てるが、実の娘の怒りを買い、家を出たままとなっている。そのエピソードをエステルに当てはめている。エステルが懸命に若いジャドに愛情を注ぐことは、監督自身の分身としての若い女の子に、人生を歩み出す契機を与えることである。




お針子

 平面の図面を立体化し、1枚のドレスに仕上げるのがお針子の仕事である。お針子の呼び名が、若い女性を想像させるが、給料はそれほど安くない。壮大なオートクチュールの世界の裏側で、普通の人々が存在し、華やかさとは程遠い、むしろ地味な努力が求められるのがメゾンのアトリエである。
本作は、パリの中心と郊外の2極を軸足とし、郊外の実体を描くことにより、人間の持つ集合体の力を描き出している。責任者のエステルは、やはり郊外出身で、団地ではなく、一軒家に住む。ジャドも、親切な年上の同僚カトリーヌも同じ郊外の出身で、この2人は早々と意気投合する。
作品の狙いの1つは、世界的な高級品(そのうちの1つが「ディオール」などのオートクチュール)は、普通の人々の手によっている事実の指摘である。
オハヨン監督は、若いジャドの境遇からの脱出により、人生に意味を与える方法として、仕事以上のものはないと発言している。若い女性にその機会を与える役割が、おのずとエステルに振り当てられるが、至極真っ当なことである。
人生の意味について考えさせる本作、見やすく、そして、少しばかり華やかな気分にさせる1作だ。




(文中敬称略)

《了》

3月25日(金)新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町、Bunkamuraル・シネマほか全国公開

映像新聞2022年3月21日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家