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『あちらにいる鬼』
人と人を結ぶ「愛」の在り方
瀬戸内寂聴役を寺島しのぶが熱演
作家・井上光晴の破天荒な生き様

 大人の「生」(=いきる)の恋愛感情と、彼らを取り巻く周囲の反応を描く傑作が『あちらにいる鬼』(2022年/広木隆一監督、脚本・荒井晴彦、139分)である。原作は、作家・井上光晴の長女である井上荒野(あれの)のによる同名の長編小説だ。バックに井上光晴の破天荒な生き様が積み重ねられ、人と人とを結ぶ愛の在り方が語られる。

剃髪後の長内みはる   (C)2022「あちらにいる鬼」製作委員会    ※以下同様

剃髪直後の白木(奥)、長内(前)

白木の団地を訪れる長内。白木(中央)、長内(右)、笙子(左)

長内の原稿を読む白木(右)

剃髪中の長内

白木

白木の妻・笙子

井上光晴

 本作は、作家・井上光晴の存在を抜きには語れない。彼は1926年に福岡県久留米市で生まれ、92年に大腸ガンのため66歳で没する。戦後の荒廃した日本の内なる問題、特に社会的弱者に視点を当てる作風で知られる。
20代には共産党員となり、共産党の細胞活動の内情を描く『書かれざる一章』(1956年)で文壇デビュー、九州の生んだ戦後派を代表する作家と目される。
井上光晴は、『虚構のクレーン』(60年)で社会の底辺にある差別と矛盾を自己の問題として、戦争、原爆、炭鉱労働者や朝鮮人、被差別部落を取り上げる。『死者の時』(60年)では、太平洋戦争中の学徒兵を描き、戦後文学の旗手としての地位を確かにする。後に社会主義的・左翼的な主題を取り上げるが、その姿勢にブレがない。
彼は共産党を除名となるが、いわゆる非共産党左翼の立場を堅持する。戦後を代表する硬質な作家である井上光晴文学の骨格は「血と骨」といえる。一方で、作家という表の顔以外に"女性大好き人間"で、さまざまな色恋沙汰のエピソードでも知られる。
本作は、この彼の二面的な面白さが凝縮され、彼こそが「あちらにいる鬼」と解釈できる。 
  


登場人物

 画面の中で活躍するメインの人物は、白木篤郎(井上光晴役/豊川悦司)、長内みはる(瀬戸内寂聴役/しのぶ)、白木の妻(井上郁子役/広末涼子)の3人である。作品の作りとして、1人の男、井上光晴を介しての2人の女性の物語であり、配役のバランスが重要となる。
豊川悦司は、生前の井上光晴がそうだったように黒縁眼鏡を片時も離さない、これまでの二枚目から脱却したキャラクターを演じ、奥行が深まり役者としての器が一段と大きくなった。
瀬戸内寂聴役の寺島しのぶは、まさに「打ってつけ」で、女性の性が自然体として滲(にじ)み出る様は見もの。寺島しのぶの役作りは、もちろんのこと、彼女自身の突き進み、我慢をしない地の強さと「やっぱりそこまでやるよね、あなたは」的な踏み込みは見事。
白木の妻に扮(ふん)する広末涼子の人物造型は、地を表に出さず黒子に徹する、女性独特の内なるしぶとさを強調する役回りで、これも当たり。脚本の荒井晴彦の堅固な作りも極まっている。



最初の出会い

 
作家・白木篤郎と長内みはるは、2人とも人気作家である。この2人の最初の出会いは、みはるの出身地・徳島であり(彼女の実家は徳島でも知られる神仏具店)、1966年に2人は同地の文学講演会で初めて顔を合わす。
白木は既に戦後文学を代表する小説家として認められ、一方、みはるは自らの体験をもとにする恋愛小説で成功を収め、人気作家の仲間入りを果たす。地の彼女は、いつも着物姿のチャーミングな女性であり、美人ではないが色気あふれる、才気煥発な女流作家である。
初対面の2人だが、女性へのアプローチ技術にたけた白木のこの日の色恋の小道具はトランプである。彼の特技は、とにかく女性の服装を、さも関心がなさそうに褒めちぎり、女性の関心を引く得意技で、2人の恋愛はすぐに男女関係となり、7年間続く。



娘と母親

 他にもう1人の女性、白木の妻・笙子は、夫とその愛人の道ならぬ恋を承知の上で添いとげる、黒子的存在だ。白木には2人の娘がおり、長女が本作の原作者・直木賞作家、井上荒野である。彼女の目を介して3人の男女の「特別な関係」が語られる。2人の作家の不倫関係が始まったのは、荒野が5歳の時だ。


恋、そして文学的関心

 2人を親密にさせた大きな要因の1つは、彼らの恋愛体質にもある。本作中、光晴こと「白木」と、寂聴こと「みはる」には恋愛に立ち向かう強さ(これ抜きに2人の不倫関係は7年も続くわけがない)と、何が来ても怖くない大っぴらさがある。
特にみはるは、白木と知り合ったときには若い年下のパートナー、真二(高良健吾・彼にはインテリ臭が感じられない)と暮らす。そして、過去にも2人の男性と通い婚状態であった。この事実は映画化されている『夏の終り』(2013年/熊切和嘉監督、主演・満島ひかり)に詳しい。





嘘つきミッチャン

 井上光晴の晩年5年に迫るドキュメンタリー『全身小説家』(1994年)を手掛けた原一男監督は、彼の自筆年譜に疑問を抱き、調べ直す。現われる彼の履歴に多くの虚偽が混じることが判明する。
例えば、満州旅順生まれ(本当は久留米市生まれ)、独学で専検に合格、七高、国学院などで学ぶは、ウソのオンパレードである。幼いころから近所では「ウソつきミッチャン」と呼ばれていた。これらのウソ、原作者の井上荒野によれば、「父は自分を小説化している」と解釈している。
ある時、寂聴と井上は佐世保の崎戸炭鉱へ行く。ここで、寂聴は出家の意志を伝える。この時の会話が振るっている。彼女は夫と4歳の娘を捨て出奔(しゅっぽん)する。それを聞いた彼は「自分も4歳の時に親に捨てられ、孤児」(これは口から出まかせ)と応じる。
場を盛り上げるウソ、彼が主催する文学講習会での、女装してのストリップ芸など、とてつもない嘘によりコミュニケーションを作り上げる天才ともいえる人物だ。彼はウソの衣をまとうサービス精神の塊である。





文学者としての結びつき

 白木とみはるの関係は、1973年の彼女の得度(出家の儀式)により消滅。その後、2人は家族を含めての交友関係を続ける。
2人の深い関係は愛人関係と共に、互いの文学の深奥を極める意図が見られる。2人が文学者でなければ、深い関係には至らないと推測が成り立つ。





最後の儀式

 関係の清算を決意するみはる(寂聴)は最後の夜を白木(井上光晴)と過ごし、翌日仏門の第一歩たる剃髪式に臨む。白木はこの儀式が2人の最後と考え、式後の彼女に会いに岩手まで足を運ぶ。この剃髪式、自毛を惜しげなく、実に大胆にそり、すっきりと丸坊主になる。演じる寺島しのぶの思い切りの良さは見もの。




その後の交友

 白木とみはるはその後、友人として交友を続け、白木夫人にとり憎き恋敵であるはずの2人の女性は、互いの立場を尊重し合い、共感を覚えるようになる。この2人の女性の親近ぶりは、本作の最後の見どころとなる。
2人を離れて見守る娘の荒野は、白木のみはるへの熱い気持ちを知る。同時に、亭主をみはるに奪われた格好の妻、笙子は、夫のことだけを考えて生きる女性である。
この笙子の役割が面白い。彼女は家庭ではみはるの悪口を一切口にせず、敵対心も見せず、夫とその愛人を、距離を保ちつつ見守る。おおらかな、腹の座った人物として描かれている。
崎戸炭鉱見物時に出家を決心して告白、そして剃髪式と、流れるような展開、荒井晴彦の脚本は冴(さ)えわたっている。
家庭を選ぶ白木、1人で生きると決めた、みはる。愛をはぐくみながら、それぞれの生き方が提示される。よくあるハナシだが、愛、そのものを見つめる濃厚な視線、その重さに圧倒される。






(文中敬称略)

《了》

11月11日より全国ロードショー

映像新聞2022年11月7日掲載号より転載


中川洋吉・映画評論家