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『ある男』
別人として生きてきた亡き夫
原作の物語性の良さ生かし練られた脚本
前半後半の転調で謎解きの面白さ

 今年のベストテン入りが期待される日本映画『ある男』(2022年/石川慶監督・編集、向井康介・脚本、原作:平野啓一郎「ある男」〈文春文庫〉より)が封切られた。ハナシ自体の練り、原作の物語性の良さの生かし方、その上、向井康介の脚本も堅固であり、見ていて引き込まれる。
 
 
作品自体、前半と後半に分かれる2部構成で、前半は家族の物語、後半は謎の男探しのミステリー調で極められている。特に後半の魅力が、松本清張の世界を思わす作りで、ここも見どころの1つだ。

3人の主要人物、里枝(左)、城戸(中)、大祐(右)   (C)2022「ある男」製作委員会    ※以下同様

城戸弁護士

美涼(左)と城戸(右)

資料を前にする城戸弁護士

里枝一家

刑務所での面会、小見浦(左)

城戸弁護士

葬式で

安藤サクラの芝居力(ちから)

 筋自体の最初の舞台は九州、宮崎の緑濃い山林地帯である。そして、客のまばらな文房具店が映しだされる。店内は、1人で店を切り盛りする30歳前後の女性・里枝(安藤サクラ)。彼女は商品のボールペンを整理するが、今にも泣きそうな表情、何が悲しいのか、見る側には分からない。
この台詞(せりふ)のない表情だけの芝居。もちろん、作り上げられた彼女の芝居であるが、いかにも自然体の所作で、何気ない表情1つとっても、作為を作為と見せず、彼女の天性の資質を感じさせる。冒頭の短いシーンからして、面白くなりそうな予感を抱かせる。 
  


文房具店で

 田舎のさびれた店に、若い男性・谷口大祐(窪田正孝)が立ち寄り、小さな文具を求める。文具店周辺には人もまばら。翌日、そして次の日も、彼は店へやって来ては小物を求める。
3度目の来店の時、自身の風景スケッチ帳を持って、「里枝さんのお子さんもこの中に居ます」と絵を見せる。そして、唐突に「友達になってください」と彼女に声を掛ける。これが最初の出会い。
大祐は、九州から遠い伊香保温泉(群馬県)の旅館の次男であるが、なぜか、市役所の農林課に努め、木を伐採(ばっさい)する仕事に就く。彼が何者か、周囲はまるで見当がつかない。
その彼、離婚歴のある里枝と心を通わせ、2人は結婚する。彼女には前夫との間に小学生の男の子、悠人がおり、もう1人、大祐との間にも1女をもうける。家族4人の普通の地味な家庭を作る。



謎の男大祐

 
大祐は山で木を切る仕事を、初心者ながら見よう見まめでこなし、一人前になる。だが、ある時、切った巨木の下敷きとなり死亡。妻の里枝も折角手に入れた小さな幸福を失う。
近所の人々が集まり、葬式を執り行う。そこに、見知らぬ男性が「お線香」にと現われる。彼は亡くなった大祐の兄、谷口恭一(眞島秀和)で、伊香保の旅館の主人と、自己紹介する。事件はその時に起きる。霊前の男性は、目の前の故人の写真を見て、これは大祐とは違うと言い出す。
亡くなった夫の家族については、本人も口にせず、残された里枝は、そんなことは有り得るはずがないと主張するが、明らかに他人で、ただただ驚く。一体、亡くなった夫・大祐は何者であろうか、疑問が湧き上がる。



弁護士登場

 ここからハナシは後半部へと入り、一体、大祐を名乗っていた男は何者かを調べるミステリーが始まる。
里枝は一度結婚し、息子、悠人をもうける。次に生まれた新生児は身障者で、生後間もなく死亡。わが子を失った夫婦2人の間は、ギクシャク状態となり離婚、彼女は幼い息子を引き取りシングルマザーとなる。
亡き夫について何も知らない彼女は、以前、離婚時に手続きを依頼した弁護士・城戸章良(妻夫木聡)に、亡夫の身元調査という奇妙な相談を持ち掛ける。ある男「X」の正体について、城戸弁護士は調べ始める。



「X」の影を追って

 大祐の死後、城戸弁護士は、亡き夫は別人として生きて来たことを里枝に話す。まず、別人であることに気付いた大祐の兄のもと、伊香保に乗り込む。
この兄弟、仲が悪く、弟の大祐は伊香保を飛び出し、別人として生きることを選び、さらに別人が大祐になりすまし、里枝と結婚する。
単なる人違いではなく、裏に何かが潜む気配が濃厚であり、事実関係が複雑化する。





元カノの出現

 次いで城戸弁護士は、大祐の元カノ、美涼(清野菜名)にも会う。若い2人は高校の同窓生で、ある日突然、彼が姿を消し、今でも女性は彼の消息を探していることを知る。
ここで、大祐は何らかの罪を犯し、姿を消すために別人になりすます疑念を抱き、過去のなりすまし事件、ニセ戸籍の売買事件に注目する。
後半部分は、物語の基調が打って変わり、松本清張的な暗い昭和の一面が押し出される。この前半後半の転調がミステリーとしてのハナシにコクが出る。見る者を暗い世界に誘い込む、謎解きの面白さが前面に浮かび上がる。





過去の事件の掘り起こし

 次に、城戸弁護士が着目するのが、戸籍売買事件で、この事件で収監されている服役囚、小見浦憲男(柄本明)を刑務所に訪れる。この狡猾(こうかつ)で態度の大きい彼は、なぜか、ある男「X」の名前を知っており、城戸弁護士は、彼をつっつけば情報が得られると踏むが、小見浦はしたたかで、情報をちらつかせ、城戸弁護士をおちょくる態度に出る。
さらに、ハガキをよこし、謎めいた個人名を出し彼を翻弄する。貴重な情報源と思われるこの服役囚に対し、怒りを抑え、城戸は何とか糸口をつかもうとする。この横柄な服役囚を演じる柄本明の芝居は怪演と呼ぶにふさわしい。
蛇足だが、この一連のシーンで、城戸弁護士の在日3世の出自についての差別的発言を繰り返し、挑発する小見浦だが、この在日問題と、ある男「X」を結び付けるのは、アイデアとしては良いがハナシに無理がある。





解明への急展開

 城戸弁護士の小見浦服役囚との面会以降、ある男「X」の真相解明への急展開は、グイグイ押すスピード感が後半の見せ場。見事なものだ。
小見浦服役囚との面会で、彼が谷口大祐の戸籍売買に関与し、想定外の男が登場する。その人物は死刑囚であることまでハナシは突き進む。さらに、その死刑囚に息子がおり、彼が美涼の元カレである事実が明らかになる。
ひどく、ひねりを効かす運びであり、生前の谷口大祐はビルから滑り落ち、それが事故か自殺かぼかされる。死刑囚の息子、原マコトのボクシング・シーン、意外な展開である。本物の谷口は生きているのか、死んでいるのか謎が謎を呼ぶ。





事件の裏に滲む生き方

 次々と予期せぬ人物の登場。そのこと自体に意外性があり、作品の広がりとなる。しかし、作品の言わんとするところは、他人の人生を追う城戸弁護士のように、人はいくつの人生を送れる可能性、そして、ひょっとしたら人間は変わり得るという視点が顔を出す。
別の言い方をするならば、人間は別人になれるかも知れないということであろう。そのテーマを、ミステリーの上に乗せ、語るのが本作『ある男』である。
ラストは締めであり、洒落(しゃれ)ている。あるバーで2人の男が静かにグラスを傾けている。そこで、他人同士の2人は名乗り合う。その折、客の1人である城戸弁護士は、「名刺を切らしたが、自分は谷口大祐です」と名乗る。実際に、別人になって見せたのである。
うまい手であり、ここに、作り手の言いたいことは、自分は自分自身であり、同時に別人になり得る論理が披歴される。この結論の持って行き方がすごい。快作だ。






(文中敬称略)

《了》

11月18日全国ロードショー

映像新聞2022年11月21日掲載号より転載


中川洋吉・映画評論家