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『小さき麦の花』
死生観こそ本作の重要なテーマ
貧農夫婦を善意の塊とする人物設定
中国映画の実力を示す作品が公開

 中国映画の実力を示す作品が公開される。それは『小さき麦の花』(2022年/リー・ルイジュン脚本・監督〈40歳〉、中国映画、133分/「隠入塵煙・英題「RETURN TO DUST」)である。
 
 
概して、中国映画は普遍的テーマを扱い、その点が多くの人々を惹(ひ)きつける。本作はまさに、その普遍的な死生観を真正面からぶつけている。ただし、リズムのゆるさ、個人の思考をできるだけ前に出さない手法に物足りなさを感じさせるときもある。この辺りに登場人物の強い個性が浮かび上がる韓国映画との大きな違いがある。

夫ヨウティエ(右)妻クイイン(左)
(C)2022 Qizi Films Limited, Beijing J.Q. Spring Pictures Company Limited. All Rights Reserved. ※以下同様

レンガの家

畑仕事

仕事の合間の昼食

収穫間近の麦

ニワトリのヒナ

妻とロバ

見合い

日干しレンガ

「生老病死」

 タイトルの『小さき麦の花』は、麦の芒(のぎ=実の殻にある硬い毛)のことで、本作のテーマでもある。麦の生命は麦粒から始まり、夏の成長を経て、また麦粒の形に戻る。あたかも人間の一生と同様だ。仏教用語にある「生老病死」に該当する。
この教えは、すべての生あるものの生死にかかわる人生観を意味する。人間はこの世に生を受け、死に行く運命にあり、この死生観こそ本作の重要なテーマとなっている。そして描く対象は、農民と土地の関係、その背景である四季の移り変わりである。 
  


厄介者同士の結婚

 舞台は農村であり、登場人物は世の中の普通の道に乗り損ね、あるいは自らを目立たぬように生きる貧農のカップル。
男性は地元の農民で、両親、長兄、次兄に死に別れ, 家長格の三男一家に養われる身で、農業の手伝いをする下男扱い。要するに、食事だけあてがわれコキ使われる身。不遇な彼ヨウティエを演じるウー・レンリンは、本物の農民で実に「感じ」なのだ。そして、彼は監督の叔父でもある。
一方、彼と結婚するクイイン役のハイ・チンは、中国で「国民の嫁」の異名で親しまれている人気女優である。クイインは親類に世話になる内気な女性で、足に障害がある不具者。そして、女性として困ったことに「おもらし」の癖がある。2人は豊かでない両家の厄介者だ。



2人の性格

 
2人とも自分から他人に話しかけることのできない性格で、ほとんど友人のいない環境。周囲の身内たちは、2人が不平不満をもらさないことに付け込み、わずかな食事(丼一杯の米や麺のみ)で朝から晩までコキ使う。
使う方も、邪魔な彼らを持て余し、見つけたのが2人の結婚という厄介者払いの手段だ。2人は、現在の立場を至極当然と受け止め、別に不平を言うわけでもなく現状を運命と受け入れる。とにかく、口数は少なく仕事熱心で、しかも極めて善良なのだ。



舞台背景

 物語の撮影地は、監督の故郷、中国西北地方の甘粛省張掖市・花牆子(ホアチャンツ)で、中国で2番目に大きい内陸河川のエチナ川の畔(あぜ)にある。画面で見える範囲でも、麦畑が延々と続く、農村地帯である。
同地での農業水はエチナ川に頼り、湿地が多く、この土が日干しレンガの原料になる。ヨウティエ夫妻が初めての自分たちの家を建てるが、その建材が夫妻手作りのレンガである。



3人の愛の交換

 夫は農耕用のロバを婚前から飼っており、畑仕事、荷物の運搬と一家にとり欠かせぬ存在で、貴重な労働力だ。多くの村人たちはロバを雑に扱うが、夫はいつもロバに優しく接する。
2人の見合いの時、クイインは下を向いたままであるが、夫がロバに餌をやっているところをたまたま見て以来、彼が優しい人間であることを知る。彼ら2人は他人(ひと)の愛情に恵まれず、周囲の無視の中で生きており、優しさには人一倍敏感であり、互いの気持ちを思いやり、愛を育む。
足の悪い妻は、無理に重いものを不自由な足で持ち運ぶが、夫はそんな妻に代わり、積極的に手を貸す。今まで不遇な人生を歩んできた2人にとり、互いの愛は心を温め合うかけがいのない機会である。
ある時、夫は所用で街へ出かけ帰りが遅くなる。妻は寒い夜道に立ち、彼の帰りを待つ。その姿を見て「風邪をひくじゃないか」とたしなめる。だが彼女にとり夫の体調は大事で、つい寒い夜外で夫の帰りを待つことになる。彼の冷えた体を温めるために用意した白湯(さゆ)を抱え。
劇中、客人に振る舞うのが白湯であり、お茶ではないことを見る人は知ることとなる。中国式なのだ。妻の思いやり、心温まる場面だ。





夫の献血

 近所の豪農の手術のため、同じ血液型の農民を探す。そして、人の善い夫に白羽の矢が立つ。大量の献血で、彼の身体を思いやる妻は、病人の身内や病院の人に嘆願するが押し切られる。
多分、農村内の目に見えぬ身分の格差の壁になるものである。お礼は、寸志と言われるわずかな金額か、無料奉仕であろう。しかし、犠牲となる夫は、そのような扱いに不満を述べたり、抗議をしたりせず、割りの悪い仕事を当然のように受ける。




監督の人生観

 ここにルイジュン監督の持論がのぞく。彼は、命あるものには運命があるとする考え方だ。例えば、麦そのものは1年で役割を終える。ニワトリはヒナの段階から飼育され、暮れには食する。長年生活を共にするロバも、夫が街暮らしをする段になり野に離される。
これらの生死は、夫婦にとり運命であり、逆らえないものとする確固たる人生観が存在する。人が亡くなれば、それが運命と受け入れる。生に執着せぬ生き方だ。
作品的には、貧農夫婦を善意の塊とする人物設定を試みている。したがって、富への執着心「ゼロ」の2人を正面に据える構図となる。人にはそれぞれの分があり、それが運命で従わねばならぬとする考えで、多分、中国的発想の1つであろう。



夢の生活

 すべて運命に従うように説きながら、1つだけ違う。
現在の中国では、農民に対し住宅対策の一助として古い民家を解体し、補助金を出す。古い家を追われる農民は、政府から新しいマンションを当てがわれる。非能率的な田舎暮らしの農民を、都市の1カ所に集める政策のようだ。
貧しいが2人の農耕生活も軌道に乗り、生まれて初めて自分の家を持つ。
2人とも貧農であり、妻は、家庭内で幼少の時からいじめられ、中庭の小屋での寝起きの酷い扱いと、夫と並ぶ貧しい生活を骨の髄まで体験しただけに、レンガの新居では「自分の布団で寝れる」と思わす歓びを口にする。身につまされる話だ。
しかし、その新居は大雨で元の泥に戻り、人生の巻き直しとなる。せっかくの自分たちの家を失っても、これは運命と2人は黙って受け入れる。



人は自然と共に

 不運続きの夫妻に最大の不幸が訪れる。妻が誤って川に落ち溺死。その死を淡々と受け入れる夫。涙すらない。ここまで来たら、彼らを称えることしかない。しかし、彼らには愛があり、互いを慈しむ心がある。これらが彼らの人生を彩る。
死生観が底流に流れるが、見る側は決して打ちひしがれない。夫妻が立派に生きた証しがあるから。
中国映画の傑作である。





(文中敬称略)

《了》

2月10日からYEBISU GARDEN CINEMA、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次公開

映像新聞2023年1月23日掲載号より転載


中川洋吉・映画評論家