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『山女』
大飢饉に見舞われる東北の村が舞台
身分制度、男女差別に向き合う
主人公の人間的な強さを押し出す

 新人監督、福永荘志(ふくなが・たけし、現在40歳)の3作目『山女』は、新進監督の気合の入った力作である。彼は『リベリアの白い血』(2015年)、『アイヌモシリ』(20年)を手掛けている。脚本の長田育恵は現在放送中の連続テレビ小説『らんまん』で知られるが、劇作家・井上ひさしに師事、その後は演劇畑の仕事が多い。本作は映画用のオリジナルストーリーとして仕上げられている。撮影は暗い画面で押し通し見せ切るダニエル・サティノフで、彼の映像感覚が光る。そして、若手スタッフの力が結集されている。
 
舞台は、未曽有の大飢饉(ききん)に見舞われる東北の村。時代は18世紀後半。福永監督は、日本の過去の風習や精神性が凝縮された民話集の1つ、柳田国男の『遠野物語』に強く惹(ひ)かれる。この柳田作品は、岩手県遠野地方が背景となっている。
昨今の若者、そして福永監督の世代は、民俗学者でもある柳田国男を知らず、何か辛気臭い昔の物語くらいに受け取ることも多いはずだ。実際、暗い話には違いないが、この東北の一寒村の出来事自体は、われわれが生きる現代社会と相通ずるものが多い。
具体的に述べれば、差別問題(富める者と貧しい者の分断、外国人、特にアジア人に対する故なき日本人の持つ優越感)、集団による同調圧力と閉鎖性に依っている。本作は、厳然と現在まで続く賤民(せんみん)に対する身分制度、男女差別に正面から向き合っている。
それらの困難な問題を17歳の少女に背負わせ、前面に押し出す作りとなっている。この愚直な真っ当さが本作の見どころだ。

       (C)YAMAONNA FILM COMMITTEE    ※以下同様

父親伊兵衛

雨乞い

凛と庄吉(弟)

山男と凛



凜に思いを寄せる泰造

森の中の弟

水汲み場、村人(左)と凛

森で凜を追うマタギたち



福永監督の外国体験

 現代の日本を、柳田国男民俗学から照射する福永監督作品を通し、さもありなんと思わすのが、彼の外国生活である。北海道出身の彼は21歳の時(2003年)米国へ渡り、ニューヨーク市立大学映画学部を卒業、滞米16年、2019年夏に最終帰国する。
読者の方々によくお分かりいただくために、筆者の滞仏体験(1967−1980年)も合わせて話を進める。それは、帰国時の社会に対する違和感である。第1は人間を大事にしない風土がある。第2に社会全体の正義感の乏しさだ。
第1については、戦前の日本軍の非人道的な振る舞いで、国全体で320万人の犠牲者を出し、アジアの中国、韓国、そして最近話題となったインドネシアにおける虐殺が挙げられる。さらに9月1日に封切られる『福田村事件』(森達也監督)では、関東大震災における故なき朝鮮人虐殺が取り上げられている。この事件の多数の人権侵害に対し、声を上げぬ同調圧力の蔓延がある。男女差別もしかりだ。
異国の西欧社会から日本社会を照射する福永監督の視座の鋭さに感服し、本作に入れ込む次第である。 
  


賤民

 主人公の一家は、父親の伊兵衛(永瀬正敏)、17歳の長女、凛(りん=山田杏奈)、弟の庄吉の3人家族。ある時、凛は布にくるんだ小さな包みを隣人から受け取る。産み落とした赤子の処理である。一家は他人のしたがらない汚い仕事で生きている。伊兵衛も村人の遺体埋葬をしている。
この家の曽曽(ひいひい)じいさんが火事を出し、それ以来、田畑は村の長老たちに没収され、わずかな米を当てがわれ、村の汚れ仕事一切を押し付けられる。それが曽孫(ひまご)の代まで続く。
大飢饉の寒村は口減らしのため、伊兵衛一家の田畑を返さず、彼らを貧乏に押し込める仕打ちをやめようとしない。人の弱みに付け込む汚い手だ。この辺りを人としての在り方に福永監督は気付き、疑問を持ったのであろう。



主人公の凛

 
賤民の凛は、二重、三重の差別を仕方なく受け入れる。村人たちが忌み嫌う仕事を引き受けざるを得ない。一家にとり、田畑を村の長老たちに召し上げられ、汚れ仕事でも、乏しい現金収入となる。そして、食事は薄い水のような粥(かゆ)の極貧生活である。
その水の中にわずかな米粒が浮くような粥を、凜は弟の庄吉に食べさせる。男の後継ぎとして、貧しくとも大事にされる弟を彼女は慈しむ。見ている方の胸が痛む。しかし、彼女は何の希望も持てぬ日々を受け入れる。不条理な村の掟(おきて)に異を唱えることもなく。
父の伊兵衛はこの村の長老たちの扱いに腹をすね兼ねている様子だが、腹に収め、忍の一字だ。これは1つの生き方だが、凛の生き方とは違う。彼女にとり、現在の境遇は運命で抗らえないという諦念がある。



凜を慕う村の青年

 年ごろで、今や一家の柱たる、しっかり者の凜に思いを寄せる青年、村から村へと物資を馬に乗せて運ぶ人夫の泰造(二宮隆太郎、監督作品として、脇役で知られる光石研を主役に抜擢する『逃げ切れた夢』〈23年〉がある。)に思いを寄せられる。
しかし、彼女は身分の違いから「おれとおめえは、同じでない」と一線を画す。彼女の現実直視の姿勢には甘えやおもねりがない。その後、独身の彼は長老の娘を押し付けられる。




伊兵衛の罪

 長老や有力者を先頭に一団の村人たちが、伊兵衛の家へズカズカと踏み込む。彼らは家探(やさが)しをし、むしろの下に隠された米を見つける。これこそ、村の連中の探し物である。
この冷害の地における宝物と言うべき米は、村の蔵に一括収納され、村の長老からこの米をおしいただき糊口(ここう)をしのぐ。村人たちはその米を探し当て、犯人探しをする。伊兵衛の仕業と踏んでの家探しである。
彼は、空腹のあまり米を盗んだことを村人に問い詰められる。水のような粥で空腹に耐えかねた伊兵衛は、盗みを認めそうになるが、何と娘の凛が父親の罪を被る。女一番のおとこ気である。そして彼女は1人村を去る。
劇的構成として、前半は大飢饉の村と、人間以下の生き方、後半の早地峰山の山と2つになる。凛は村という共同社会で最下層として生き、伊兵衛の盗みの肩代わりで村を出て山に暮らす。地上は地獄、山は女神の里と対照的な場面交代となる。




村の僉議(せんぎ)

 大飢饉は相変わらずで、長老たちは村人を集め冷害対策を論議する。ここで、民話らしく、巫女(みこ=1970年代のロマンポルノのスター、白川和子が演じる)が登場する。彼女は、この米も満足に得られない状況からの脱出策は、「若い娘の生贄」と告げる。この突然のお告げだが、村人誰しも、自分の娘を差し出したくなく、長老まで、嫁にやった娘を出し渋る。
そこへ出て来たのが、人間以下扱いの若い娘、凛にお鉢が回る。悪い役割は常に社会的に虐げられた人が犠牲になる、昔から現代まで変わらぬ悪しき行為である。




凛探し

 凜に重い役割を押し付ける村の長老から村人まで、これで一安心、誰も若い娘の命など気に掛けない。
一方、凛は山奥に入り、1人の口がきけぬ山男(森山未来)と遭遇する。この武骨男は彼女を守る存在となる。しかし、村人たちはマタギを組織し、"凛狩り"をし、その最中にマタギの鉄砲で山男は撃たれ死亡。凜は捕えられ、檻(おり)に閉じ込められ火炙りの刑を待つ。
人の世は常に弱い者が犠牲になり、その際たるものは戦争である。
この人類が自ら引き起こす不幸を、日本から離れ凝視するのが福永監督である。彼は現在の日本の現状から社会の閉鎖性とし同調圧力、女性差別否定の視座に立つ。彼なりの鋭い分析であり、長期間、外国からしか見られない日本の社会の在り方に批判の目を注ぐ。労作であり、日本人自身が今一度考えることを提案している。
大飢饉の状況を写すカメラも暗さをしっかりつかんでいる。また、主人公の凛にみられるように、顔に強い意志が出ており、人間的強さを押し出している。魂のこもった力作だ。






(文中敬称略)

《了》

6月30日ユーロスペース、シネスイッチ銀座
7月1日新宿K's cinema ほか全国順次公開

映像新聞2023年7月3日掲載号より転載


中川洋吉・映画評論家