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『福田村事件』
史実に基づく震災後の虐殺事件を描く
国民の不満の矛先を朝鮮人に
巻き添えになった日本人の行商団

 衝撃的かつ日本人の良心の覚醒を促す一作が公開されている。森達也監督の『福田村事件』(2023年/森達也監督、佐伯俊道、井上淳一、荒井晴彦、共同脚本、137分)である。物語は、限りなくドキュメンタリーに近いフィクションの形をとり、100年前の関東大震災(1923年9月1日、11時58分)に端を発する、朝鮮人(作中、蔑称〈べっしょう〉センジン)虐殺事件を描く。
 
『福田村事件』は、社会派(あるいは政治的)ドキュメンタリー作家、森達也(代表作は1995年発生した地下鉄サリン事件のオウム真理教の内部を写す『A』〈98年〉)と、本作の脚本家で企画者としてもクレジットに名を連ねる脚本家の荒井晴彦などとの合作企画である。
事件は利根川沿いの千葉県東葛飾郡福田村で、震災後の9月6日に起きる。殺す側は村の住民、殺されるのは香川から来た薬の行商人の一団である。彼らは、れっきとした日本人だが、讃岐(さぬき)弁が朝鮮語と間違われ、在郷軍人を中心に100人の自警団が襲いかかり、幼児や妊婦を含む9人が竹やりや日本刀の一太刀を浴び落命する。
村人たちは、威張り散らす数人の在郷軍人にあおられ、農家の主婦が行商団のリーダーの男性を刃物で刺し殺す。これを機に自警団は血に飢えた集団と化す。彼らは行商団を取り囲み、「朝鮮人を殺せ」とばかり、憎しみをたぎらせる。他は見て見ぬふりをする。
この見て見ぬふりは、普通の人間が殺人鬼と化し、事件後口をふさぐことにより、100年後の現在まで事実を知る人間はほとんど皆無となる。

澤田夫妻(C)「福田村事件」プロジェクト2023 ※以下同様

行商団(右)と対立する自警団

威張り散らす在郷軍人たち

行商団

船頭の新助と

森達也監督

虐殺の背景

 これらの朝鮮人のみならず、日本人をも巻き込む虐殺の背景には、朝鮮併合(1910年−45年)以来の植民地支配、韓国における三・一独立運動(1919年)、1918年の日本国内の米騒動、シベリア出兵、スペイン風邪の日本上陸(1919年)と、国内経済の不況が重なったことによる、国民の不満の高まりがある。
そこで、時の政府は国民の目を海外へと向けさせることに躍起となる。国内の問題をごまかすために国民の目を外へ向けさせる手法は、権力者が使う常とう手段である。このやり方で政府は、関東大震災を機に朝鮮人を悪玉に仕立て、問題のすり替えを図った結果が、朝鮮人虐殺となる。
震災直後、事態の収拾を急ぐ政府(内務省)は、各地の警察署に下達した文書に、「混乱に乗じ、朝鮮人が凶悪犯罪、暴動などを画策しているので注意すること」の一文があった。この通達を盾として、朝鮮人が井戸に毒を入れる、婦女子に乱暴をするといった類(たぐ)いのデマ・風評がまき散らされ、多くの朝鮮人、そして中国人、社会主義者が犠牲となる。
亡くなった人の正確な数については、政府はなんとしても隠したいところである。推定数としては、数百人から約6000人とされるが、当然、裏の取れないものだ。福田村事件では、朝鮮人ではなく、日本人が殺される特異性がある。 
  


登場人物

 佐伯俊道、井上淳一、荒井晴彦の手になる共同脚本は精緻に練られ、登場人物たちの輪郭がしっかり描かれる。主演格は朝鮮帰りの学校教師、澤田智一・静子夫妻(井浦新、田中麗奈)であり、日本の朝鮮併合に懐疑的なインテリである。
智一は、朝鮮に赴任した際、同国の「三・一独立運動」(1919年3月−5月)で立ち上がる朝鮮国民が殺される「提岩里(ていがんり)教会事件」(同年4月15日)を目の当たりにし、ショックを受ける。この事件では29人の朝鮮人が殺害された。
直接虐殺の現場に居合わせ心を痛めた澤田夫妻は、故郷の福田村へ帰郷する。この時期、日本でも大正デモクラシーと呼ぶ民主主義的、自由主義的運動が社会主義者の主導により展開されるが、その動きは大きな社会的力とならず、後の太平洋戦争へと時代は突入する。



在郷軍人

 
震災直後、福田村には、流言飛語をまき散らし内務省のお墨付きを手にしたとばかり、在郷軍人4,5人が幅を利かし、彼らが村の実権を握る。
血走った彼らは朝鮮人皆殺しを口々に唱え、矛先を朝鮮人、中国人、社会主義者へ向ける。



福田村の讃岐の人々

 ちょうどその時期、福田村には、身内で固めた讃岐からの行商団15人が薬の実演販売のため滞在する。彼らの話す讃岐弁は朝鮮語と間違われる。村を仕切る在郷軍人らは、行商団面々に歴代天皇名を唱えさせ、少しでも誤れば竹やりで刺殺する蛮行を繰り返す。
在郷軍人の差配で、村人も殺人に加わる。先頭を切り権力者と化した彼らに、村人も、われ先に加わり、殺人の輪を広げる。保身のための同調圧力である。見て見ぬふりの一線をいとも簡単に普通の人々が乗り越える。
森監督は村人の行動を、善良な人々が善良な人々を大量に殺す現象と説くが、赤子まで竹槍で殺す人々を果たして善良と言い切れるだろうか、この点は、筆者にとり釈然としない部分だ。




薬の行商団

 薬の行商団は、リーダー沼辺新助(永山瑛太)に率いられる穢多(えた=被差別身分の呼称)であり、彼らは貧しい農民で食べるために薬の行商をし、全国を回る。インチキとしか思えない薬を村人に売りつけるなど、ちょっと怪しげだが、彼らも善良な人々の一員である。強引に朝鮮人に仕立て上げられ、殺される彼らは集団の狂気の餌食であり、あってはならぬ悲劇が起きる。
追いつめられる彼らは、被差別部落者の聖典というべき「水平社宣言」を斉唱する。結辞の「人の世に熱あれ、人間に光あれ」が胸に響く。ここに作り手の願いが込められている。
首謀者の在郷軍人たちは、大正天皇の死去に伴う恩赦で、全員無罪放免となる。なぜ、朝鮮人が狙い撃ちされたのかは、日本人の持つ、有色人種への露骨な差別意識が働いている。わが国では、白人に対しては礼儀正しく親切であるが、有色人種に対しては故なき優越感を誇示する風潮があり、この流れは現在まで続いている。




貧しい者同士の気遣い

 脚本・演出にはもう1つの狙いが込められている。薬の行商団のもたらす、おとこ気あふれるリーダー、沼部新助の立ち居振る舞いである。
貧しい行商団は彼が自身でも認める通り、インチキ薬で口に糊している。しかし、彼は、貧しいお遍路に自分の弁当である握り飯を押し付けるように渡す。




朝鮮あめ売り女性

 福田村には朝鮮あめを売る朝鮮女性がおり、彼女は民族衣装を身につけ、道行く人に声を掛けるが、誰も振り向きもしない。子供たちは、親から朝鮮のあめは「お腹を壊す」とでも吹き込まれているのであろうか。とにかく、絶望的に売れない。
彼女の小商いを見兼ねて、新助は1袋ではなく5袋も気前よく買う。感激の彼女は、立ち去る行商団の後を追い、お礼にと朝鮮の扇子を差し出す。彼女の感謝の気持ちがこもるこの扇子が仇(あだ)となり、荒れ狂う村人に追い詰められる新助は、朝鮮人と見られ殺される皮肉な結果となる。
このように、小さなエピソードを交えて、物語は緊張感をもって繰り広げられる。グングンと観客を物語の中へと押し込む剛腕は見事としかいいようがない。




知られていない事件

 今まで、多くの人が全く知らないか、見て見ぬふりをしてきたのか、100年前の「福田村事件」を筆者はこの作品で初めて知る自分の知識のなさを恥じねばならぬ。日本人として知っておくべきことを、本作『福田村事件』は教えてくれる。日本政府は未だ国家としての謝罪も補償もしていない。日本人に殺された多くの人々の無念が直接伝わる。
筆者は本作を今年の日本映画ベスト・ワンに推奨する。日本人として胸に刻み込まねばならぬことを、今、教えてくれること。次に映画的完成度の高さ。そして、今もって変わらぬ日本人の悪しき国民性の一側面と反省を促す鋭い警告、人としての良心を、作り手がその熱量を目一杯握りしめ、ぶつけるところが理由として挙げられる。






(文中敬称略)

《了》

9月1日(金)より、テアトル新宿、ユーロスペースほか全国公開中

映像新聞2023年9月4日掲載号より転載


中川洋吉・映画評論家