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『父は憶えている』
記憶を失った父が23年ぶりに帰郷
問われる家族の絆と夫婦の愛
中央アジア・キルギスを舞台に描く

 日本からは遠い存在と思われる中央アジアのキルギスからの作品が、現在上映中である。それが『父は憶えている』(2022年/アクタン・アリム・クバト監督〔以下、クバト監督〕クバト監督とダルミラ・チレブベルゲノワ共同脚本、キルギス・日本・オランダ・フランス製作、キルギス語、カラー105分)だ。

クバト一家(息子、祖父、孫)
(C)Kyrgyzfilm, Oy Art, Bitters End, Volya Films, Mandra Films
※以下同様

祖父と孫

若い頃のウムスナイとザールク(家族写真)

自宅の庭でザールク((左)、スグタ(右)

自宅のザールク、後方が家族

息子の嫁メーリムと義母ウムスナイ

祖父ザールク

イシコ・クル湖

ウムスナイと現夫ジャイチ

息子夫婦(クバトとメーリム)

ゆったりした生活のリズム

 キルギスは中央アジアのほぼ中央に位置する、旧ソビエト連邦(ソ連)領である。2023年の外務省の統計によれば、面積は20万平方b、人口670万人、首都はビシュケク、言語はキルギス語が国語(ロシア語は公用語)となっている。
宗教は主としてイスラム教スンニ派、民族はキルギス系が73.8%と多数を占める。国土の東は中国と接し、天山山脈の麓、西はカザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタンだ。
本作の舞台は、同国の有名な避暑地イシク・クル湖畔である。カメラは5000bを超える天山山脈の麓に広がる山岳と草原を冒頭に写し出す。壮大な景色であり、そこで人々はのんびりと暮らす。多分、キルギス人の体質であろうか、生活自体もゆっくりし、映画自身もいささかテンポが遅い。この辺りの精神風土であろう。 
  


祖父の登場

 街に大きな清流が流れ、そこに架かる吊橋を渡ってくる2人の男性。年老いた方が本作の主人公ザールク(クバト監督自身)で、若い男性はザールクの息子のクバト(ミルラン・アブディカリコフ、監督の息子)である。
あごひげを生やし、無口で表情を失った記憶喪失のザールクが、息子クバトに抱えられる様に吊橋を渡る。行き交う人々は怪訝(けげん)な表情で「ザールクか」と問うが、返事はない。
後の宴席で、老人の正体が明かされる。彼は23年前、ちょうどソ連崩壊のころ、ロシアに出稼ぎに行き、そのままロシアにとどまる。その間、頭を打つ事故に遭い、それ以来、口が利けなくなる。
ロシアへの出稼ぎは、クバト監督によれば、大体100万人で、人口約700万人弱の同国では、14%に上る数字となり、ロシアへの依存ぶりがよく分かる。
元来、工業のないキルギスは、農業国であり、国民の多くが職を求めてロシアへ向かう。



残した妻との離婚

 
ザールクは既婚者で、妻ウムスナイ(タアライカン・アバゾヴァ)を残してロシアへ出稼ぎに出る。そして、23年間の長きにわたり、ロシアにとどまる。その間、ウムスナイは、村の有力者のジャイチと再婚する。これが、物語を語る上での糸のもつれである。
出稼ぎの男性たちの仕事は、警備員、建築労働者、運転手、皿洗いと肉体労働である。他に、健康保険や子供の学校を考えてのロシア国籍への変更者などがいる。一方、出稼ぎ家庭では、残った妻や子供との関係が悪化し、離婚も多い。本作もこのケースに当たる。



村の有力者

 ウムスナイは、経済的問題もあって、村の有力者ジャイチのプロポーズを受け入れる。彼女や周囲は、夫ザールクが既に亡くなっていると信じてのことだ。
ジャイチは、金貸しや、警察と組み、財を成し豪邸に住み、車はトヨタのレクサスと、見事な新興成金ぶりである。
1991年のソ連崩壊に伴う混乱で、キルギス国家自体は貧富の差が広がり、それまで存在しなかったホームレスが現われる。明らかに社会構造が変化している。ジャイチのように、お上とつるむ不正がはびこり、選挙は極端な低投票率で、大統領選は1割の民意でも当選する。




ゴミ拾い

 記憶喪失のザールクが自ら進んでやる仕事がある。それはゴミ集めである。集めたごみを息子のトラックに積み、以前からあるゴミ置き場に運び込む。
キルギスでは、ソ連崩壊前はゴミの散乱がなく、崩壊後に、人々はゴミを放置するようになる。それは、消費経済の拡大の副産物である。特に、田舎では消費の拡大に追いつけない行政が、ゴミの放置を見逃している側面が挙げられる。言い換えれば、純然たる環境問題の新たな発生である。
ザールクの家族は、当初老人のゴミ集めを恥じていたが、息子のクバトは、母親の再婚を許すことへの悔いが段々と募り、父親の記憶喪失と母親の再婚問題の板挟みとなる。
それから息子夫婦は、今後の過ごし方を話し合う機会を持つ。そこで妻のメーリムが「子供1人増えると思えば、老人を引き取ることは何でもない」と思い切った発言をする。そして、ゴミ集めは恥ずかしくないと家族全員で精を出す。
ここに、キルギス民族が昔から大事にする、強い家族愛がはっきり見られる。この点は、クバト監督が主張したいことの1つであろう。




ウムスナイの場合

 記憶喪失になり、23年ぶりの帰郷になった、ザールクのことが気になる元妻ウムスナイは、イスラム教徒独特の女性軽視、男尊女卑の社会的風潮に疑問を持ち始める。
最初に取った行動が、尊師の意見を聞くことである。彼を訪ね意見を聞くが、尊師からは通り一遍の回答しか与えられない。落胆した彼女は、尊師宅を去る間際、モスクの助手格の中年の男性から「心の赴くまま行動しては」と励まされる。ここで彼女の胆(はら)は決まる。
ウムスナイは、ろくに家に帰らない亭主ジャイチに対し、離婚を申し出て、イスラム教の魔法の言葉、別れを告げる方が男性なら「クル」を3回、女性なら1回唱えればいい掟(おきて)があり、女性は亭主に「クル」と申し渡す。
経済的自立が困難な女性は、この特権を使わず仕舞いの場合が圧倒的である。この「クル」を宣言されれば、男性は面子を失う。いわゆる逆切れ状態に落ちるジャイチは、ウムスナイに性的暴力を振るう。このすさまじい一件を見るだけでも、イスラム社会の女性の権利がいかに弱いかがよく理解できる。




イスラム社会の弊害

 ソ連邦崩壊後、今までなりを潜めていたイスラム教が復活する事実がある。民意の1割しか反映しない大統領選、賄賂の横行、ゴミ問題に見られる環境問題など、現実の社会問題の噴出がもたらす貧困問題にも作り手は発言する。
この生の現実の告発も本作の趣旨であろう。中央アジアの小国の現実がわれわれ日本人にもきっちり伝えられる。



一寸の光明

 のんびりした気風の国民性、家族の絆の強さは、キルギスの伝統文化の重要な柱であり、これらの在り方を問うている。
ラストのクバト家における身内、友人たちとのお茶会の席の様子が印象深い。皆が車座となり、イスラムのしきたりである酒抜きの懇親会で、嫁のメーリムが一曲歌いだす。キルギスの人にとり心の歌と言われる『エムシデ』(「私の記憶にある」の意)である。
元々、山間部の遊牧民であるキルギス人が歌い継ぐ歌である。その山で積んだ花に恋人をなぞらえ、献身的な愛と哲学的な思いが、ウムスナイのザールクへの心情を表現している。この歌声の近くに居るはずの彼の耳にも入っているはずだ。ここに2人の愛が垣間見え、一寸の光明を感じさせる。
キルギスの社会状況を写しつつも、同時に別れた夫婦の愛の再生も促す作品であり、地方色にあふれ、家族愛や夫婦愛が心に沁みる作品だ。






(文中敬称略)

《了》

12月1日より新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー

映像新聞2023年12月4日掲載号より転載

中川洋吉・映画評論家