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『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』
映画監督・若松孝二の破天荒な生き様
井上淳一が面白おかしく描く
ミニシアターの開業に端を発する

 映画監督・若松孝二(1963−2012年)の1982年の足跡を追う『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』(以下『青春ジャック』)(2023年/脚本・監督:井上淳一、119分)が3月に公開される。この映画チラシに書かれているコピーが振るっている。そこには破天荒な同監督のナマの生き方が踊っている。そのコピーが《1980年代 若松孝二が作ったミニ・シアター。そこで人は映画に出会った。人に出会った。青春を生きた》である。本作『青春ジャック』のキモを見事に表している。なお、本作は2018年公開の『止められるか、俺たちを』(白石和彌監督)の続編にあたる。

撮影中の若松監督と井上淳一      (C)若松プロダクション   ※以下同様

撮影現場

木俣支配人と映写助手金本

屋上の井上(右)と金本

河合塾予備校 井上(右)

若松監督(右)と木全支配人

若松監督との出会い

 今作の中心人物が若松監督である。大昔のことであるが、この彼に筆者自身会って話をしたことを思い起こす。
筆者の個人的体験であるが、1966年、早大闘争の年に同大学を卒業し、当時の大映東京撮影所(現・角川大映スタジオ)に入社した。助監督室の若手先輩に「新宿に〔ユニコン〕という、大島渚や吉田喜重が飲んでいるバーがあるが、一緒に」と誘われ、木造建ての2階にある小さなバーへ足を踏み入れる。そこには、若手助監督の憧れの的である大島渚が飲んでいるではないか。近くで時の人を見て驚いたことを今でも覚えている。
大島渚のそばには若い小柄な男性がおり、彼と話す機会を得る。この彼こそ、若き日の若松孝二であり、華の映画の世界で、東北方言のズーズー弁を話す彼に仰天する。
その後、筆者は大映を辞めフランスに留学する。映画監督志望が叶わず、映画評論家となる。フランスには13年滞在し、その後帰国、1977年以来、カンヌ国際映画祭への取材を始める。
そして2012年に若松孝二監督が、この映画祭の「ある視点」部門に招待枠で出品。カンヌでの共同記者会見で40数年ぶりに彼と会う。かのズーズー弁は都会化したのか、影を潜めていた。 
  


シネマスコーレ

 本作『青春ジャック』は、若松監督(井浦新)が自分の作品を上映する場として、名古屋にミニシアター「シネマスコーレ」を立ち上げたことに端を発する。なぜ、大都市を避けたかは、若松式計算により、単に安いことだけが理由で、芸術的意図はないとのこと。
そこで同監督は、東京・池袋の文芸座(新文芸座の全身)を辞め、郷里の名古屋へ戻る木全純治(東出昌大/力みが消え、妻夫木聡の後継者に成り得る好演)をわざわざ名古屋まで訪れ、彼を新映画館・シネマスコーレの支配人としてスカウトする場面から始まる。アートシアター系の好みの木全は、畑違いのピンクの若松の登場にはただただ驚くが、最後には承諾する。
2人の最初の出会いは名古屋の喫茶店で、若松は名古屋ならモーニングだろうと注文するが、昼過ぎのモーニングはなく、文句たらたらの彼(現在では1日中モーニングを出す店があるそうだ)。真っ昼間から色メガネの若松、少し口をとんがらせモノを言う。
もう1人の主人公として、名古屋の名門予備校・河合塾生で、本作の監督・脚本を務めた井上淳一の若き日を杉田雷麟が演じる。
この映画青年は、弟子入りを頼みに若松監督をシネマスコーレに訪ねて来る。その時に発した若松の言葉がトンデモものである。「とにかく、予備校を出て大学へ入れ。ウチは給料は出さないが、4年間で1本立ちの監督にする」、そして「大学時代は親の仕送りで食えるだろう」といい加減なことを平気な顔をして宣(のたま)う。
その井上、監督になれそうな可能性を聞き、若松監督を名古屋駅まで送る。そして、こともあろうに新幹線に乗車、彼について東京へ行く。
もう1人のスタッフが金広子(芋生悠)。彼女は映写助手で、監督志望であるが、何を作るべきか皆目分からない。おまけに、彼女は在日であることをひた隠しにしている。いつも、不愛想で何か手探りの状態。



スタッフとの師弟関係

 
この4人がシネマスコーレを舞台に活躍する。常に亡き若松監督の存在が後ろに控える形で推し進めている。
『福田村事件』の共同脚本を担当した監督の井上淳一は、師たる若松監督のいい加減ぶりを面白おかしく描いている。
さらに若松自身の人間性がよく描かれ、良くも悪くも闘う映画人に仕立て上げられ、この姿勢といい加減さの組み合わせは、笑いの塊である。
例えば、何も知らぬ大学1年生の井上への対応だ。初めに映画は自分の信念を持つことの大事さを彼に説く一方、ラストの撮影現場では、井上が準備した23カットを若松監督が口出しし、ワンシーンにするいい加減さ。ちょっと考えられぬ行動だが、直感力に優れる人間と見れば納得がいく。まるで逆のことを、事もなげにやってのけるアバウトさが若松監督の面白さであろう。
また、作中は全部実名の呼び捨てで通し、よくもここまで言えるかと驚く場面がある。路線方針で若松と木全が対立する。「入りが悪い。今週は名画路線で大林宜彦(尾道3部作)をやってるから入らないんだ。全部ピンクにしちゃうぞ」と若松監督は機嫌が悪い。彼は「大林3本立てだって、いい年をして大林の何がいいんだか」とボルテージは上がる一方。大林監督をケチョンケチョンにけなす一幕だ。



最後の締めの笑い

 笑いの塊の本作、最後は、現場で何も分からず邪魔者扱いされる井上、監督、撮影、照明からドヤされ、挙句の果て、車のバック誘導では車をぶつけ、若松監督はブチ切れとにかく、おかしい。大笑いの段である。



若松組

 若松孝二は自分のグループを1965年に結成。彼自身、高卒で、現場では軽くあしらわれ、バカだチョンだとののしられたことは想像に難くない。そこで彼は、既存のシステムでは芽が出ないことを悟り、その当時、斜陽とはいえ大手映画会社が独占していないピンク映画に着目したのではないだろうか。
ピンクの世界では長時間労働、低賃金が当たり前だったが、大手が撮影所人員を採用しなくなったため、多くの映画青年がピンクの門を叩いたのである。この中に優秀な映画人がいた。
例えば、若松組には2023年度の秀作の1本、『福田村事件』の脚本家、荒井晴彦、本作の井上淳一がいる。監督では高橋伴明が挙げられ、若松監督に連なる人材である。盟友、足立正夫はカンヌ国際映画祭後、1970年代初頭に若松監督と共にパレスチナに渡った。足立は元日本赤軍のメンバーでもあった。
ほかにピンク出身の監督として、滝田洋二郎、広木隆一、磯村一路、周防正行などの名も挙げられる。




作風の軌跡

 若松は、1963年に『甘い罠』で監督第1作を撮り、その後、おびただしいピンク映画を製作する。彼のこの傾向の潮目が変化しだしたのが『水のないプール』(1982年)、『われに撃つ用意あり』(90年)、『実録・連合赤軍 浅間山荘への道路』(2008年)、『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(12年)などである。
初期は、とにかくスタッフ無給、低予算を売りに数を稼ぎ、プロダクション・経営に重心を置き、後期に、反体制色の強い作品群を備えるあたり、なかなかの戦略的発想であり、後半作品は、彼の真骨頂ともいえ、特に『水のないプール』あたりから自己主張する作家へと変貌している。
この若松監督のような自己矛盾をいとわない姿勢といい加減さとで、自身の本領を全うできたのかもしれない。これを若松組の一員、井上淳一監督が、時に恨みを込め、笑いを連続的にぶつけたのだ。
笑いは、頭を使わねばならぬことをつくづく感じさせる。2024年のベスト5に入る傑作である。






(文中敬称略)

《了》

3月15日テアトル新宿ほか全国順次公開

映像新聞2024年2月5日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家