『ぼくが生きてる、ふたつの世界』
耳が不自由な母親と息子の愛憎の物語
母子間の情感が胸を打つ一作
呉美保監督による9年ぶりの新作 |
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ろう者(聴覚障がい者)であるの母とその子の困難な意志の疎通、和解を描く、『ぼくが生きてる、ふたつの世界』(2024年/呉美保監督、105分)は、母子間の情感が胸を打つ一作である。耳が不自由な母親・五十嵐明子(忍足〈おしたり〉亜希子)と息子・大(だい)(吉沢亮)による、ろう者しか分からぬ愛憎とその絆の回復を扱い、最終的に物語は母子の相互理解へと落とし込む苦いが心温まる作品で、背後には身体障がい者問題にも触れている。
原作は、「ろう」という生い立ちを踏まえる社会的マイノリティに焦点を当てる作家・エッセイスト、五十嵐大の自伝的エッセイ『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』(幻冬舎刊)である。本作はこの原作の骨太さに負うところが大きい。
監督の呉美保は在日韓国人で、『そこのみにて光輝く』(2014年)、『みんないい子』(15年)の傑作を手掛ける。本作は9年ぶりの作品であり、監督自身の9年にわたる長い沈黙を乗り越える待望作であることは間違いない。
リアルな現実の中に見出す希望の光と人と人とのつながりや、家族の姿を通し描き続ける呉美保監督独自の世界である。母と子の物語であり、ろう者の明日へと延びる心の軌跡、やがて母への思いが静かに満ちる作品となる。
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帰郷時の大
(C)五十嵐大/幻冬舎 ?2024「ぼくが生きてる、ふたつの世界」製作委員会 ※以下同様
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車窓の大
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呉美保監督
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大(右)と母親・明子督
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台所での2人
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大一家、中央・父親の陽介
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子供時代の大
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成人した大
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舞台は宮城県の小さな港町。実際のロケは仙台市と、日本三景で知られる松島との中間に位置する塩釜市である。
登場人物は、ろう者の母親、五十嵐明子、息子の五十嵐大がメインとなる。家族には祖父母がおり、祖父はかつて「蛇の目のヤス」と呼ばれたヤクザ者の康雄(でんでん)、祖母・広子(烏丸せつ子)だ。祖父の元ヤクザの乱暴でガサツな設え(しつらえ)は珍品。一見の価値がある。
大の父・陽介(今井彰人)は港で働く塗装職人で、彼もろう者であるがおとなしい男性。地方の普通の家族だが、他との違いは、大の両親は2人共ろう者であるところだ。母親の明子は、家事の大半を押し付けられ、子育てと併せて黙々とこなす優しい女性の設定。演者自身ろう者であり、彼女のおとなしさは役にぴったりはまる。
明子夫妻の一人っ子である大だが、妊娠時に祖父母や親戚が両親のろう状態を心配し、出産に大反対。この世に生まれなくなるところ、明子は周囲の反対を押し切り、出産する。生れ出たのは正常者で、ろう者の両親としてはひと安心であった。
ろう者の場合でも、お腹の子を数カ月宿す母親は非常に危ない橋を渡らねばならない。ちょうど、過日の寄稿で触れた『大好き』(7月1日号、伊勢真一監督)の身障者モノの母親と重なる。こちらも、周囲の危惧を無視し出産した母親・西村信子と同様のケースだ。
孫が生まれると、今までとは打って変わり祖父の溺愛ぶり。ろう者の大の両親もここで一息つく。
幼少の頃の大は、いわば普通の子で、両親の耳の具合を気に掛けなかった。ただ、「うちは世間と少し違う」くらいの認識であろう。大は手話を使い、大好きな明子の通訳をすることも彼にとり喜びであり、背後からの車から母親を守ることもごく自然なことだ。
しかし、小学生になると、母親が好奇の目で見られることが気になり、ある時は、授業参観の通知を母親に隠したりする。母親にとり、つらい場面だ。
ある日、近所の花壇荒らしは大の仕業と汚名を着せられる事件が起き、母親は息子のために、おとなしい日ごろの彼女と変わり猛然と抗議する。単なる偏見が大事(おおごと)となり、母親の踏ん張りもありながらも、口惜しさといたたまれなさで、大は彼女を責めるようになり、母親にとっても理不尽なことで、しかも、自分の意見もろう者故に言えぬ悔しさは、いかばかりであったのだろう。
普段はおとなしい息子が反抗期へと徐々にはまり込み、息子は母を恥ずかしい存在として距離を取り始め、2人の関係はにわかに気まずくなる。
この事件以降、息子は希望の高校を落ち、「全部お母さんのせい、障害者の家庭に生まれたから」と、拗(す)ねる。世間の偏見や、母子間の隙間風が吹き抜け、大は故郷を出て東京へと向かう。
呉美保作品の良さは、その脚本の構成の堅固さにある。本人が意図しないにもこだわらず、人間関係が悪い方へとずれる作劇の構成がしっかりしている。ここに、呉美保独特のドラマの設定法が見える。人間関係のギクシャクの描き方、母親に何の科(とが)がない状況、呉美穂流の腰が決まった筆致を駆使している。
故郷の暮らしの息苦しさ、周囲の偏見に抗し、大は東京で1人暮らしをし、環境を変えようと試みる。東京へ出ても、何の技能もない地方出身の若者にあるのは、パチンコ屋の従業員ぐらいであった。
その間、下宿には夜怪電話が毎晩鳴る。それは母親が息子の声を聞きたくて掛ける無言電話である。何とも母親の子供を思う心情がひしひし迫るようだ。しかも、彼女からは毎月、食糧品と5000円と手紙が添えられている。これも泣かせる。
東京生活も8年になり、大はパチンコ屋を辞め、編集プロダクション探しをする。面接では、最近読んだ本を尋ねられ、『ハリー・ポッター』と回答。これでは面接者も「後日連絡する」としか言えないだろう。
1つチャンスがあった。何かうさんくさい編集プロで、そこのチーフに祖父の話やパチンコの話を生真面目に説明、そこを編集者に気に入られ、再就職を果たす。
また、手話のグループに入り、ろう者の若い人たちとのコンタクトを求める。ある時、飲み屋で、ろう者のために親切心からメニューをまとめて注文するが、これがろう者間ではNGで、グループの若い女性からやんわり注意される。ろう者だって、メニューの注文位は出来ることを大はすっかり忘れていたのだ。
東京暮らしの大は、大した仕事に就けず、アルバイト暮らしである。その彼の父親がくも膜下出血で倒れ、急きょ故郷へ8年ぶりに帰る。
病院では、気落ちした様子の母親、明子が1人ベンチに座っている。郷里を離れて8年の年月、大も母親にはしっかりしてもらいたい気持ちが強くなり、本来なら幼い時と同様、守るべき対象である母親に対し、ただただ申し訳ない気持ちが芽生える。まさに、2つの世界にまたがり生れてきた大にとり、恥ずかしいはずのろう者が、自分の誇りうる存在となり始める。
車内で、2人は手話で会話を楽しそうに続け、今まで見たことのない、母親の子供に帰ったような笑顔を大は目の当たりにする。駅で息子を送る母親、送られる母親に対する息子の覚悟を決めた表情。母親の愛情を背中越しに受け取る大。ここに気持ちのつながりがはっきりと見える。感動的な場面である。
主演2人の役者の飾り気のなさ、脚本の良さがしっかり結び付き、呉美保監督の資質が一段と上がる。多くの人に見ることを薦めたい作品だ。シンプルな情感が人を引き付ける。
(文中敬称略)
《了》
9月20日(金)新宿ピカデリー、シネスイッチ銀座ほか全国順次公開
映像新聞2024年9月2日掲載号より転載
中川洋吉・映画評論家
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