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『正体』
死刑判決を受けた男の逃亡劇
冒頭から目が離せず一気に高まる緊張感
人間の繋がりを濃密に描き上げる

 筆者が2024年度の日本映画ナンバーワンに推す『正体』(24年/監督・脚本、藤井直人、脚本・小寺和久、120分)の公開が待たれる。『新聞記者』(19年)を代表作とする藤井直人監督作品である。本作、原作の持つハナシの面白さが見るものを圧倒するサスペンスだ。もちろん、藤井監督の演出力の冴(さ)えも見逃せない。

 
藤井作品の特徴である構成力の良さは、今作も健在で、なおかつ、3つの大きな箱を順に転がし、話の中身を詰め込む論法にノリがある。
物語は、ある若者、鏑木慶一が強盗殺人で死刑判決を受ける。その若き死刑囚に横浜流星が扮(ふん)する。「仮面ライダー」シリーズ出身のイケメンで、昨年公開された主演映画『春に散る』、同じく藤井監督作品『ヴィレッジ』の演技で「報知映画賞 主演男優賞」を受賞している。若手にしては力みがなく、将来の大成がうかがえる。
冒頭、急病の彼が救急車で搬送されるところから物語が始まる。狭い車内で、何とこの重病人が警備スタッフを蹴飛ばし乱闘となり、車から逃走する。大変奇抜な発想で、原作者・染井為人(『正体』〈光文社文庫〉)のアイデアには脳天に一撃を食らう思いだ。
このように、冒頭から目が離せず、緊張感が一気に高まる。この彼の逃亡劇を3つの箱にまとめ、人間のつながりを濃密に描き上げている。

鏑木慶一(主役)
(C)2024 映画「正体」製作委員会 ※以下同様

安藤沙耶香(左)鏑木慶一(右)

又貫刑事

和也(左)鏑木(右)

酒井舞(ケアセンターの看護師)

鏑木(右)

向き合う又貫(左)と慶一(右)

手配写真前の又貫刑事

安藤沙耶香

和也

逃亡劇

 脱走する死刑囚は、当然ながら警察の目を逃れ、変装し仮名で社会の片隅に潜り込む。ここがタイトル『正体』の由来だ。
刑事・又貫征吾(山田孝之)は、ねっちりと死刑囚・鏑木慶一を追う。この刑事はコワモテで、強引かつ、力で押す特技の持ち主。この2人の、いわば格闘劇が物語の核となる。
最初の舞台は大阪。主として刑務所出所者を集めて土木作業をさせるブラック企業で、低賃金の上、管理が厳しく、身分保障もない。
2番目の舞台は東京の新聞社で、彼はそこに出入りするフリーライター。3番目は地方の老人ケアセンターと、次々と隠れ家が変わるという趣向を凝らしている。 
  


土木作業場

 砂ぼこりが舞うグランドのような作業所で、労働者は黙々と作業をこなす。陰々滅滅たる雰囲気だ。そこに鏑木恵一が、一介の肉体労働者として潜り込む。長髪でひげボウボウ、黒縁眼鏡に帽子と、これ以上ないと思えるほどの変装だが、何かいわくありげな印象を抱かせる。
その現場で、若い労働者の1人である野々村和也(森本慎太郎)がケガをするが、管理者は「嫌ならいくらでも代えはいる」と動こうとしない。刑務所と変わらない(詳しいことは分からぬが、刑務所の医療体制の不十分さを思わす)。
仲間に担がれ下宿に戻った和也を介抱。そこに、仲間として鏑木慶一が登場。控えめにふるまう彼、ケガをすれば法的には保障手当が出るはずだからと、責任者の所へ出向く。奴隷工場のような現場を取り仕切る責任者に全く相手にされない。
そこで、鏑木慶一は、六法全書の該当個所を口にする。肉体労働者がこれほどの知識を持つ設定が憎い。責任者から、わずかだが2万円を受け取る。それを和也へ「少ないが」と渡す。ここに彼の善良な人柄がにじみ出る。彼は秘かに法律の勉強をしているのだろう。
ここで2人は意気投合し、2万円を半分ずつ分けコンビニでビールとつまみを仕入れ、下宿で男2人の宴会を始める。気の善い和也は、いろいろと聞くが、どうも鏑木慶一の返事が曖昧で、彼の変装まで怪しみ、挙句の果て警察に通報する。
それを察して、慶一はそっとそこを抜け出す。第1の逃亡劇である。通報を聞きつけた又貫刑事は、一足違いで死刑囚を取り逃し地団駄を踏む。



新聞社

 
大部屋で社員が忙しく立ち働く新聞社の中に、若い女性記者、安藤沙耶香(吉岡里帆)が机に向かっている。彼女は面会と知らされ席を立つ。そこには、短髪で眼鏡姿の那須(鏑木慶一の変装姿)が原稿を届けに来る。
青年はフリーのジャーナリストで、時々、彼女からも仕事をもらっている様子。彼女は彼の仕事ぶりを買い、正規社員になることを勧める。
ある雨の夜、仕事帰りの彼女は街で傘もささず歩く彼を見つけ、声を掛ける。ずぶぬれの彼をとりあえず居酒屋へと誘い、一息つく。私のおごりと食事に誘う。生れて初めて口にするビールにつまみ。「こんなにうまいもの食べたことない」と話し、彼女を驚かす。
那須は、どうも施設育ちであることが匂わされる。居酒屋のつまみでこれほど感心することはただごとではない。彼女は、彼が何やら事件に関係していることを薄々感じ取るが、「この青年は真っ当な人である」と確信を抱く。
そして、訳ありの様だが、彼を信じると口にすると、那須は「他人から信じられると言われたことは今までなかった」と控えめに語る。作品自身はサスペンスだが、どこか情けを感じさせるところがある。このあたり、藤井演出の狙いである。



山のケアホーム

 
安藤宅にも警察は目を付け急襲するが、那須(憲一)はマンションのベランダを飛び降り、再び逃亡する。この飛び降りを主演俳優が実際にやったとのことだが、もし本当なら横浜流星の気合は見物だ。
山間部の老人ケアホームの職員として、鏑木慶一は再び現われる。今回の彼は桜井と名乗り、老人に対し、親切に対応している。
ここには、強盗殺人事件の被害者の身内である女性、村尾由子(原日出子)が入院している。彼女は事件の現場で人が殺されるのを見て、精神に異常をきたしたのだ。
鏑木慶一は由子に対し、事件当時における現場の様子の証言を懇願する。精神が壊れている状態の由子は、なかなか思い出せない。この期におよび、鏑木慶一は真犯人ではなく、冤罪(えんざい)であることが判明する。うまいハナシの設定だ。
しかし、逃亡中の死刑囚の彼は、居場所を突き止めた大勢の警官にとり囲まれる。当然、又貫刑事も現場に駆け付け、鏑木慶一と対峙する。
刑事はピストル、逃げようとする鏑木慶一はナイフで向き合い、いつ引き金を引いてもおかしくない状態となる。ここで、刑事は躊躇(ちゅうしょ)し、わざと照準を外す。ここも情けの一幕と取れる。
最終的に犯人逮捕で一件落着と思いきや、実は同様の事件の犯人の仕業と判明し、鏑木慶一の冤罪を検察は記者会見で発表する。




守る会

 
鏑木慶一と接触する和也、沙耶香、ケアセンターの看護師・舞は、彼を信用し、「守る会」を立ち上げ、署名活動を始める。一度は警察に通報した和也だが、2人の女性同様、彼の真っ当さに信頼を置き、3人共同で彼を擁護する。
ラストの設定場面の陳述「人は未来を生きる権利がある」の一言、ストンと胃の腑に落ちる。





検察に対する批判

 
又貫刑事の上司に当たる検事正の川田誠一には、『孤独のグルメ』出演の松重豊が扮する。ちょっとクサイが一見穏やかな立ち居振る舞いで、言葉使いも丁寧であり、ドラマを引き締めている。
この検察の登場、時期的に見て、袴田事件を厳しく見つめている風がある。「犯人らしい人間を仕立て上げるのが検察の使命」と思われるセリフを検事正が発言するが、これは明らかに袴田事件を思わせる。人生の半分を無罪にもかかわらず拘留し、バレた後は検察1人が本人に謝罪するだけとは、全てにフタをする検察の体質に対する抗議と解釈できる。
何を言いたいのか分からぬ日本映画作品が多い中、この藤井作品は伝えるべき意図がある。ハナシが優れ、情けも散りばめる本作、今年度の収穫だ。




(文中敬称略)

《了》

11月29日全国公開 配給:松竹

映像新聞2024年11月18日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家