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『大きな家』
生きることに対する葛藤描く
児童養護施設で暮らす子供たちの日常
インタビュー形式で本音を伝える

 今回紹介する作品『大きな家』(2024年/竹林亮監督・編集、斉藤工企画・プロデュース、123分)はドキュメンタリーで、施設の子供の日常が描かれる。わが国では社会的養護が必要とされる子供が約4万2千人おり、その半数は児童養護施設で暮らす。子供たちは18歳になると退所し、自立せねばならない。「大きな家」とは、その子供を包み込む器と解釈できる。

施設の子供    (C)CHOCOLATE ※以下同様

雪遊び風景

野球少年

家の前に立つ

朝の洗面

登山

施設の玄関

社会的養護とは

 この施設で暮らすのは保護者のいない子供、保護者に監護させることが適当でない子供で、公的責任で養育して保護するとともに、養育に大きな困難を抱える家庭への支援をする。
彼らに「安定した生活環境を整え、生活指導、学習指導、家庭環境の調整などを行い、子供の心身の健やかな成長とその自立を支援する機能を持つ」場所が、児童養護施設と規定されている。
基本的に親のいない子供の生活保証であり、交通事故などで親を失くした場合や、家庭内DV、シングルマザー、低収入者たち、また、18歳以降の施設退所後の進路の不安などに対処する。 
  


子供たちのとらえ方

 一般的に外部から見れば、施設の子供はかわいそうと見がちであるが、竹林監督はこれを偏見ととらえ異を唱える。
事実、拙稿『正体』(本紙11月18日号)のように、施設育ちである主人公の青年の才能を買っている女性記者が、逃亡中の彼に居酒屋で食事をおごる場面があり、「今までこんなおいしいものは食べたことがない」と口にし、彼女を驚かす。この時、多くの人は施設の食事のひどさを連想する。
しかし本作では、施設育ちの人々がかわいそうな対象であることを否定する。もちろん、在所者は親との死別、病気、虐待、経済的問題を抱えているが、彼らは貧しくてかわいそうな人々であることを否定する。ここが本作の視点の1つである。



子供の描き方

 
施設の子供は、さまざまな理由で親から離れ暮らす。彼らの生きることに対する葛藤を描くのが『大きな家』のメインテーマであり、竹林監督が言うように、本作は子供の成長のリアリティーに触れている。それは何を思い、何に悩み、どうやって大人になっていくのかを描くことである。
構成としては、施設の子供、それぞれ1人ずつのインタビュー形式をとり、14歳、15歳、18歳、19歳の少年少女に語らせる。彼らの名前だけは明らかにされるが、施設名、所在地、その運営と係の大人たちの名は伏せられ、心の内側に分け入ることを主眼とする。
本作は被写体のプライバシーを守るという製作者の意向として、劇場での上映に限定しており、YouTubeでもSNSでもテレビでも触れることはできない「子供の本音」に耳を傾けてほしいとの要望がある。興行だけでは収入は減るが、ここに製作者の覚悟が感じられる。
ちなみに、この作品は多くの劇場で公開されるように寄付金を募っている。作品のクレジットに名前が記載される5万円と15万円のチケットは完売、現在4千円(1枚)、1万円(2枚)の寄付付きチケットを販売中である。
作り方は、一切ナレーションを省き説明の物足りなさを感じるが、ここが竹林監督の狙いであろう。そのため、本作中でも分かり難い部分もある。



施設の現在

 
車中の男性、インタビュアーの求めに応じて施設について話す。多分、子供たちの兄貴分や親分格であろう彼によると、現在、在所の子供は90人、職員は120人を数える。大変なことはいろいろあるが、最大の課題は退出後の仕事探しとのこと。
その日も、1人の退出者の件で、彼に会いに行く途中だという。外から見ると、かわいそうなイメージとは程遠く、普通の子供たちであり、施設も全員個室、住居は快適である。
子供たちは近所の小学校、中学校へそれぞれ通う。幼稚園組の子供は、1人で着替え、靴下をはき、朝食を取る。朝食はご飯と味噌汁、おかず1品と、普通の家庭と変わらない。学年の節目々々にはお別れ会も催される。
先述のように、施設在籍は18歳までという決まりで、悪く言えば、高卒のまま社会へ放り出される規則であり、施設の側から見れば、この点が不安の種である。




14歳、「よしまさ」

 
よしまさ(在所者の名前だけは発表される)のインタビュー。14歳の彼、野球部に所属し、練習に出かける。なぜか1人だけの食事で、施設側が彼の練習に配慮したのかも知れぬ。この野球少年、守備、バッティングがうまくいけば、野球がもっと好きになると、夢中である。
施設での誕生会は日常的行事で、今回は自分の誕生日のためのケーキを買いに街へ出る。買ったケーキを10個に切り分けるが、これが難物。子供たちがワイワイ騒ぎながら切り分ける。
ほかの行事として、約100人での登山。施設の恒例行事であり、職員が引率。都会の少年少女はすぐにはへばり、あごを出す。
よしまさ少年は、日曜日に母親と会うはずであったが、彼女は来ず仕舞い。落胆の様子を隠す彼。この施設には妹も入っており、母親はこの兄妹を家に戻す気がないらしい。
このように、本作は、せりふだけで追う構成で、ナレーションによる説明を省いている。竹林監督の独自の手法である。なぜ、母親は2人の子供を施設に預けたのか、一切説明はない。見る側にとりちょっと食い足りない見せ方だが、これも「有り」とも言える。
よしまさ少年にとり、施設の仲間とのかかわり方、他人と血のつながる身内とは一線が引かれ、親しい仲間同士は、ケンカはしない。言うなれば、他人を内側に入れない姿勢が顕著である。これは、ほかのインタビューでも同様な傾向がみられ、身内は特別な人との認識がある。





15歳、「かえ」

 
この施設には女子もいる。その1人のかえは料理人志望であり、料理学校への進学を望んでいる。彼女には父親がおり、今日は彼との面会のため公園で待っている。
ここで、学業をしっかりすれば、面会も自由な様子が見て取れる。かえにとり、施設とは自分の家ではなく、あくまで仮の住居と考えている。





17歳、「こうき」

 
俳優志望のこうき。彼の施設の友人観は、友達以上であるが血のつながりがないので身内以下と、やはり家への帰属感が強い。彼の姉も施設出身。彼女は16年間在所、幼い時から親元を離れている。
こうき少年にとり施設とは、母親と離れて暮らす場、しかし家に対する愛着は深い。このあたりが、普通の少年少女と家族観が違う。また、彼は、あまり人に頼らない生き方をしたいタイプの少年だ。




18歳、「あいな」

 
18歳の退所を迎えたあいなは、引っ越しで忙しい。将来的に海外ボランティアを志望。望みが叶いネパールへ飛び、孤児学生の世話の手伝いをする。
彼女は、何でもやってやろうとするタイプ。しかし英語は駄目。ネパール人の女の子は皆家族のように振る舞うのに。ここが日本とは違う。彼女も血のつながらない他人を家族と思うことは、自分には無理と語る。
番外的に黒人の血が混じる19歳のスミスの側を挙げている。彼は、施設とは実家と同じと思い、ファミリーとなったような良い所としている。母親には会いたいが,わだかまりがあり会えない。彼は、家に対し、無理に同化するところはない。
以上のように、施設の子供たちは、家、家庭への強い愛着を持ち、他人と身内を分けて考える傾向がある。多分、親と離れて暮らすためだろうか。黒人のスミス少年は、家への帰属感をまるで感じさせないところがある。



(文中敬称略)

《了》

12月20日全国順次上映

映像新聞2024年12月2日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家