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『あの歌を憶えている』
若年性認知症の男とトラウマを抱える女
偶然の出会いが導く新たな関係
過去の事件を背景に描く大人の愛

 ひねりを効かせる、大人の愛の物語『あの歌を憶えている』(2023年/ミシェル・フランコ〈メキシコ〉監督・脚本、米国、メキシコ合作/原題「MEMORY」/103分)は、一見、地味な作風だが初老の男女の愛を取り上げ、納得のいく肌触りを感じさせる。ニューヨーク在の若年性認知症を病む男性とトラウマに陥る女性を中心に、大人の愛が語られている。主人公役ソールを演じるピーター・サースガードは、本作で2023年ヴェネチア国際映画祭男優賞を受賞。今年54歳になる彼の若年認知症を患う彼の芝居、この年でよくここまで愛を演じるものと感心させられる。

シルヴィア(右)とソール
(C)DONDE QUEMA EL SOL S.A.P.I. DE C.V. 2023 ※以下同様

地下鉄を待つシルヴィア

ソール(左)とアナ(右)

アナ(左)とシルヴィア

ソールの弟アイザック(中央)、サラ(左)とソール(右)

禁酒会

 冒頭の場面、何かの集会のようだ。10数人の若くない人々が、それぞれ思いを込め、涙しながら語る。丸く取り囲む他の参加者が耳を傾けるあり様は、まるで個を捨てて再生へと向かおうとする人々の祈りにも見える。
この集まり、アルコールでの失敗や家族との間のこじれに悩む人々の、心の救済の場であることが分かる。その中に、本作のもう1人の主人公シルヴィア(ジェシカ・チャステイン)の顔が見える。彼女はシングルマザーで、一人娘アナと同席している。
シルヴィアは、若い頃からアルコール依存症に悩み、禁酒会に通うことでほぼ病気を克服。今は静かで規則正しい生活を送り、ソーシャルワーカーとして人に奉仕する仕事に打ち込む。
このシルヴィアを演じるジェシカ・チャステインは『タミー・フェイの瞳』(21年)でアカデミー主演女優賞を獲得した、ハリウッドの大物女優である。もともと美人系の理智的で凛(りん)としたたたずまいは、強い役柄が合うが、今回はそれにもう1つの精神病役を被せ、新たな姿でお目見えする。 
  


同窓会

 物語の出だしは、シルヴィアの同窓会から始まる。母親サマンサ(ジェシカ・ハーパー)への反抗からか、彼女は十代の頃よりアルコールをたしなみ、不良少女の扱いを受ける。長じて禁酒会に入り、更生の道をたどる。彼女はケースワーカーの道を選ぶが、堅物の美人といった風情だ。
悪夢たる少女期の性加害のトラウマを、自身の内側に押し込めるように努める。彼女は小学校の頃、上級生に性的いじめを受ける。彼女にとり、悪夢以外の何物でもない。それが今では他人に奉仕をする職業を選び、多忙な毎日を送るようになる。
このトラウマのため、彼女にとり、学校は「くそ食らえ」的存在とあり続ける。昔の悪童と会って謝罪を受け、和解する余地は現在の彼女にはない。同窓会では、皆と談笑せず、笑顔も見せない。早めに会場から去りたい一心である。
その時、出席者の1人、中年男性ソールが彼女に関心を示す。彼の視線を無視するように集会場を後にする。男性はずっと後を付け、地下鉄に乗り家までついて来る。彼女は急いで家に入り、二重にドアの鍵をかける。ここで、用心深い女世帯であることが分かる。
やれやれだが、驚いたことに厳しい寒さのニューヨークの朝、この男が玄関先にうずくまっている。まさかの事態に彼女は、彼の身の回り品を調べ、住居を探し出し、福祉関係の車で彼を自宅へ送り返す。何とも迷惑な中年男だ。
ここで、シルヴィアの生活の一コマ一コマが写し出される。車も持たず、夜、地下鉄を利用する彼女。富裕層出身ではなく、帰宅してからは家の片付けをし、就寝となる。
この働く女性の日常を手際良く追うフランコ監督の観察と描写力、1人の女性の日常を的確に描いている。



中年男ソール

 
シルヴィアは、同窓会の会場から後を付けてきた男は、昔の性加害者だと考える。
ソールは、弟のアイザック(ジョシュ・チャールズ)、その娘サラとニューヨーク郊外の一軒家住まい。家主はソールであるが、まるで彼は居候のような感じだ。
弟からは、自分の居ない昼間の外出を厳しく禁じられている。付き添いなしの外出で迷子になることもあるが、彼の認知症は時折、記憶がすっぽり抜け落ちるもので、家から出なければ日常生活に支障はない。
シルヴィアは、性加害事件についてソールに真相を聞くため、彼を訪ね問いただす。そこで、彼の若年認知症について知る。彼は、幼い時の事件についてはよく覚えていないと答える。



付き添いの依頼

 
ある朝、ソールの弟の娘サラがシルヴィアを訪問する。用件は、ソールの付き添いの依頼だ。弟アイザックが日中勤めで家を空けるが、その間彼の面倒を見てほしいとのことだ。
シルヴィアは突然の依頼に驚くが、人への奉仕を生業(なりわい)とする彼女としては、渋々ながら、仕事の副業として引き受け、さらにアイザックの申し出で有料の仕事となる。
同窓会の変なおじさんとの縁、ちょっと作り話めくが、このアイデアは物語としては良くできている。本来なら憎き相手となるソールだが、彼は穏やかで優しい人柄であり、「まあ、仕方ないか、面倒を見てあげましょう」と、少しずつシルヴィアも心を開く。
そして、彼が亡き妻と聞いたヒット曲「青い影」(1967年にリリースされたプロコル・ハルムの世界的ヒット曲)を共に聞いたりする。
こうして2人は少しずつ相手に気を許し、徐々に親しくなり、その後の長い付き合いへと続く。




ソールの入院

 
シルヴィアは突然、ソールの入院の一報を受け、すぐに病院へ連絡するものの、見舞いのアイザックから彼への電話の取次ぎを拒否される。外出禁止をアイザックから申し渡されたソールが事故に遭ったのは、シルヴィアのせいと誤解しての措置である。面倒を見る弟は、兄の身を思ってのことであり、顔をつぶされた思いなのだ。
アイザックの怒りに、さすがにおとなしいソールも黙っていない。退院した彼は「出ていけ、ここは俺の家だ」と弟を一喝する。
この騒動は一段落。兄は唯一ともいえる切り札、家の所有権を持ち出し、威厳を保つ。





壮絶な暴露合戦

 
ラストのハイライトシーンでは、メインのメンバーを一堂に集め、シルヴィアのトラウマの暴露を試みる。まず、アナがなぜ祖母サマンサと母シルヴィアの30年にも及ぶ仲の悪さを、ちょうど居合わせたサマンサに思い切って聞いてみる。
そこで、真相が明かされる。シルヴィアは母が妹を溺愛した事実を語る。どうやら、妹が母親の愛を独り占めした様子がうかがわれる。それに反抗したのがシルヴィアで、10代の頃から飲酒を始め、禁酒会の世話になる経緯が分かる。
一方、シルヴィアのトラウマは、父親が幼い姉を別室に連れ込み、いたずらをしたことが原因という事実がオリヴィアの口から述べられ、一同驚く様は異様である。
幼少期の不幸な体験を、母シンシアと妹オリヴィアだけが長い間秘密にしていたのである。不幸な出来事の重さに押しつぶされそうになるが、シルヴィアはその重みから解放されたとも解釈できる。
暗い過去からの決別、ソールがシルヴィアを好きなのは当然で、彼女は徐々に彼に好意を持つ。事件の真実を魂の解放と結びつけるフランコ監督の発想、見事な物語の運びだ。





締め

 
シルヴィアの幼少期の性加害事件、オリヴィアは名簿を調べてソールの手によるものではないことが判明し、彼とシルヴィアは互いをさらに深く信頼しあう。そして、2人の新たな人生を築くこととなる。
米国人の性に対する意識は進んでおり、日本に比べ恋愛の深め方が早いのは文化のちがいであろうか。良質な愛の物語である。





(文中敬称略)

《了》

2/21(金)より新宿ピカデリー、Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下ほか全国順次公開


映像新聞2025年2月17日掲載号より転載

 

中川洋吉・映画評論家