
『逃走』
連続企業爆破事件で指名手配
桐島聡の49年にも及ぶ逃亡とその最期
実話を基に描いた孤独な潜伏生活 |
|
多くの人が駅構内などに張り出された、過激派集団・東アジア反日武装戦線「さそり」のメンバーである桐島聡の顔写真入り手配書を目にしているだろう。この逃亡者の実話を元に孤独な潜伏生活を描いた作品が、近々公開される。その作品とは『逃走』(2025年/監督・脚本・足立正生、撮影監督・山崎裕、音楽・大友良英、110分)である。大々的に、凶悪犯罪者とされる桐島聡とは一体どのような人物なのか。その思想と社会環境に迫ってみる。
 |
桐島聡
(C)「逃走」制作プロジェクト2025 ※以下同様
|
 |
下宿の桐島聡
|
 |
手配ポスター
|
 |
作業現場
|
 |
若い時の桐島聡
|
 |
呑み仲間の女性
|
 |
死期間近な桐島
|
 |
偽名・内田洋の契約書
|
彼は1954年1月9日に広島県深安郡神辺町(現在の福山市)で生まれ、2024年1月29日に、神奈川県鎌倉市の病院で死去した。病名は末期の胃ガン、70歳であった。
1972年4月に明治学院大学入学、1975年から宇賀神寿一(ひさいち)と逃亡を開始。桐島聡の逃走期間は49年に及ぶ。その間の行動を追うのが、足立正生監督の本作『逃走』である。
桐島聡(古舘寛治)は逃げ続けることが自分の仕事で、それが仲間のためと思いはしたが、本音の部分では、逃げることはやはり辛いと感じていた。盟友の宇賀神寿一(タモト清嵐〈そらん〉)とは会う約束を交わしながら、その後一度も会っていない。それほど、桐島聡は逃走に徹し、全てを断ち切り1人で生きてきた。
桐島聡は死に際に病床で「自分は桐島聡」と本名を明かし、その直後永眠する。彼の遺体は、逗子市内の火葬場で荼毘(だび)に付され、遺骨は逗子市内の葬儀社が管理し、5年の保管期間後、無縁墓地に合葬の予定。遺族も遺骨の引き取りを拒否している。
彼自身を語る上で、1974年8月30日の東アジア反日武装戦線による、東京・丸の内の三菱重工本社ビル爆破事件(死者8人、負傷者380人)に触れねばならない。
1975年5月19日、同メンバー一斉逮捕の際、桐島聡は宇賀神寿一(1982年7月13日に逮捕、2003年6月11日満期出所)と逮捕を逃れ、潜伏生活を送る。この指名手配は誤認によるものと、足立正夫は主張している。
逃亡時、2人一緒だと目立つとの理由で別行動をとる。その後、再会を決めた日に桐島聡は姿を見せず、2人は単独行動を続ける。東アジア反日武装戦線の特徴として、集団行動ではなく、個人的に動く不文律がある。
元々は1970年春、法政大学在学中に大道寺将司が結成した「Lクラス闘争委員会」が源流。全共闘運動の終息とともに自然消滅したが、その主要メンバーが「研究会」を旗揚げし、戦前の日本帝国主義のアジア人に対する戦争犯罪と日本政府、それに連なる大企業について集中的に学習した。
この集団は次第に過激さを増し、1972年12月に「東アジア反日武装戦線」を名乗るが、これは主義・主張を同じくする者たちの共同の名称とし、自分たちのグループ名は「狼」とした。
この頃から武装闘争を視野に入れ始め、教本「腹腹時計」を出版する。そして、権力と企業の癒着の一番手「三菱重工」の爆破を狙い、死者を出す。
本来、メンバーは破壊力の弱い爆弾を使う予定であったが、爆薬量を間違って過大に作り、大惨事を引き起こす。これは闘争の誤りで、メンバー各人「しまった、間違いをした」と失敗に気づく。
その時期、東アジア反日武装戦線に「大地の牙」と「さそり」の2グループが合流。「さそり」の活動家の1人が桐島聡である。同集団は3つの組織の連合となった。
その後も企業を狙い打ちにする爆破事件を起こし、その数は12件に上るも死者は出していない。
桐島聡は1975年に間組(現・安藤ハザマ)江戸川作業所の爆破に加わり、その事件で重傷者を出す。彼は人の命にかかわることにひどく動揺したと、盟友・宇田川寿一が後に証言している。
桐島聡は、闘争においても、人をあやめることは注意深く避けていたフシがある。
一般市民も巻き込む闘争は人々から危険視され、まさに国賊と見なされる。公安の張り巡らせた網に巻き込まれた1人が桐島聡である。周囲をがんじがらめに抑え込まれ、逮捕を免れる活動家の生きる選択肢は、逃げるしかない。
三菱重工爆破事件と同様な事件ではあるが、その後死者は出ておらず、桐島聡は殺人を犯していない。罪状は、警視庁指定重要指名手配、爆発物取締罰則違反であるが、これは単なる爆発物所持・使用であり、殺人を避けていた。
足立正生監督の発言のように誤認逮捕であり、凶悪犯扱いは権力側の"赤狩り"の一種とも解釈できる。
半世紀にも及ぶ潜伏中、桐島稔は土木作業所で作業員として働き、作業所が用意するアパートの個室に住み、自炊をする毎日で、「内田洋」の偽名を死ぬ直前まで名乗っていた。
死の4日前、「桐島聡」で死にたいと病院側に申し出て、本名を明らかにする。社会保険のない彼は、自身でためた250万円を看護師に治療費として渡した。また、前歯は欠けたままであった。
個人的なことであるが、筆者は学生時代に足立正生の自主映画作『鎖陰』(1963年)を見る機会を持った。この作品、日本大学芸術学部映画学科在学中の、いわゆる学生映画の1本であったが、当時脚光を浴びた。
その後、彼は中退し、若松孝二監督が設立した若松プロダクションに加わり、数多くのピンク作品を手掛けた。
当時の映画学徒には、もはや、映画各社の門戸が開かれず、どうしても映画をやりたい者だけが、ピンク映画の門を叩いた時代背景がある。ピンクの大物、若松孝二監督のもとに多くの若者が押し掛け、何とか映画で飯を食おうと必死であった。
御大・若松は、彼ら若者に「ギャラは払わぬが飯は食わせる」と言うが、それでも多くの俊才が集まる。若松一党の共通点は、ピンク仕込みながら、話が面白く、商業映画を撮らせてもうまいのである、
その若松も新左翼で、1971年に足立とカンヌ国際映画祭に参加後帰国せず、新左翼の本場パレスチナに渡る。足立はレバノンで逮捕されるまで、パレスチナ解放人民戦線のゲリラに加わり『赤軍−PFLP・世界戦争宣言』(1971年)を撮影・製作する。
1974年にふたたびパレスチナに渡り、重信房子と共に「日本赤軍」を創設。後に、国際指名手配される。1977年にレバノンで逮捕、3年間収監され、その後日本へ強制送還される。
足立は大変な人物で、一活動家とし終わることなく、日本復帰35年の間に、この「極左テロ集団」に寄り添う3作品を撮り上げ、『逃走』は復帰4作目にあたる。
彼の思想・信念はぶれず、85歳の現在も現役で活躍中と、彼の生き方には感服せずにいられない。映画監督の傍ら、彼は日本映画学校でシナリオを長い間教えていた。
足立正生監督は、桐島聡の信念を「命がけで表現し、獲得を目指したものは『革命への確信』と述べるが、この発言こそ『逃走』をあえて続けることの自己肯定であり、彼の信念抜きには、49年に及ぶ「逃走」は成り立たない。
思想的に戦争中、多くのアジア人の命を奪い、未だにきちんと謝罪することを戦後一貫して拒否し続ける権力に対して、声を上げることは真っ当な行為である。爆破事件には賛否両論あることは十分承知しているが、今一度、命の視点から見つめ直しても良いだろう。それを足立正生監督は喚起している。緊張感が迸(ほとばし)る、彼の入魂の一作といえる。
(文中敬称略)
《了》
2025年3月15日(土)よりユーロスペースほか全国順次公開
映像新聞2025年3月3日掲載号より転載
中川洋吉・映画評論家
|