
『ただ、愛を選ぶこと』
ノルウェーの自然に生きる家族の記録
人生の葛藤と愛の深さを描く
母親の死と残された家族の喪失感 |
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母親をガンで失い、残された父親と4人の子供たちが、美しくあるが、他方不便なノルウェーの山の中での自然生活を送るドキュメンタリーが公開される。そのタイトルは『ただ、愛を選ぶこと』(2024年/シルエ・エヴェンスモ・ヤコブセン〔以下ヤコブセン〕監督、ノルウェー、84分/英題:「A NEW KIND OF WILDERNESS」=邦訳「新しき荒れ地」)である。ノルウェーは自然美の宝庫で、海の地域と山の地域に分かれる。海の景色にはフィヨルド(複雑な地形の湾・入り江)があり、山は、距離スキーで知られる高原、夏は緑、冬は雪景色に恵まれ、その自然美には息をのむ。
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マリアと長男のファルク
(C)A5 Film AS 2024 ※以下同様
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家族一同
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木の幹に穴を開け水を飲む子供たち
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父親ニックと次女フレイア
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ファルク
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フレイアとウルブ
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次女フレイア
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残されたフレイヤとファルク
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次男ウルブ
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次男ウルブ
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山岳地帯の森で自然生活をするペイン一家は、都会を嫌い子連れで山へ移住した。父親のニックは英国人、母親のマリアはノルウェー人で、彼らには子供が4人いる。夫婦はかつて町で仕事をしていたが、競争社会や物質主義からの自由を求め、山の中の農場へと移り住み自給自足に近い生活を送る。そして、子供たちは学校へ通う代わりに両親が勉強をみる。
母親のマリアは写真家で、業界では知られる存在であり、移住してからはブログを始め、毎日の自然生活を発信し、世の中とつながる。一家の稼ぎはマリアの写真家としての収入のみであるが、夫妻は自然の中に定住し、子供を育てることを決心する。
ニックとマリアの出会いが、いかにも自然を愛する2人らしい。彼らは、旅先のノルウェー北方のロフォーテン諸島で知り合い、恋に落ちる。このフィヨルドの島には船で渡るが、航行の途中、急に海中から黒い壁が立ちはだかる。島の岸壁である。まず、この壁のスケールの大きさに度肝を抜かれる。島には体長1メートル近くあるタラを水揚げする小さな漁港が点在する。
個人的なことだが、筆者は1970年代当時パリに在住し、新婚旅行を含め3度同島を訪れる機会を得る。ロフォーテンの次の寄港地はヨーロッパ最北のノールキャップ岬で、真夜中の沈まぬ太陽を見に訪れた。
マリアはノルウェーの自然生活を「wild + free」と名付けるブログで近況を紹介し、多くのフォロワーを獲得する。
ヤコブセン監督が写真家のマリアの仕事を見て興味を持ったのが、映画製作の発端である。
英国人とノルウェー人の夫婦がノルウェーの森の中で、4人のバイリンガルの子供たちを育てる様子がマリアの写真と生活日記(ブログ)に掲載される。さらに4人の子供、長女ロンニャ、次女フレイヤ、長男ファルク、末っ子の次男ウルブの成長ぶりにも興味を持つマリアは、絶好の被写体に恵まれる。
ヤコブセン監督は、マリアのブログを見て映画化を思いつき、2014年にマリアに直接会いに行く。この時期から、2人は意気投合し、ペイン一家のドキュメンタリー製作の構想が固まる。撮りたい内容は、彼ら一家の自然生活で、自給自足、家庭教育、自宅出産などだ。
映画化の企画はその後5年間お蔵入りであった。山での生活、主役は地味な英国人と4人の子供たちで、登場人物は素人だけと、目立つ「売り」に乏しいドキュメンタリーの企画であり、なかなか映画製作プロダクションも製作を迷っていたと思われる。
2019年にようやくゴーサインが出て、撮影開始となる。しかし、思わぬ事態が発生する。本作の推進役マリアがガンを宣告され、翌年亡くなり、父親ニックと4人の子供たちが残される。
死後、約3年をかけ撮影するが、ヤコブセン監督は、マリアの夫ニックに「マリアの作品(ブログ)と現在の家族の姿を映像化することが本作の趣旨」と伝え、彼の了承を得る。
作品では、故マリアの実写フィルムを交ぜ、いかにマリアが一家の大黒柱であったことと、残された家族の喪失感を描いている。
生前マリアは、子供を学校に行かせず、自身で教育することを実践し、両親が先生の代りを務める。マリアは「家族の時間」を大切にするために、教育に関して、持論がある。
それは、学校に行くこと自体、彼女は個性を大事にしないと、否定的なのだ。なぜなら、現行の教育は子供たちの冒険心と想像力を伸ばせないと考えているからである。ペイン家では、他の子供と同じようには育てない方針だ。
マリア中心で動いてきた一家であり、彼女亡き後ニックは、今の生活に不安を感じ始める。長女のロンニャは実父の下へ戻り、ペイン一家は子供3人となる。ここで初めて、長女はマリアの連れ子であることが分かる。
ママと一緒に過ごした時間が長い長女ロンニャには、母親のいない農園にとどまることに耐えられず、母親亡き後すぐに実父のところに戻ることを決める。
幸いなことにロンニャと次女フレイアは、互いにレターを交わす仲であるが、2人も母を頼り切っていただけに精神的に参ってしまう。彼女たちは別々に暮らすことになるが、互いに顔を合わし、話を交わすことを心から望んでいる様子だ。
ロンニャが去った後、フレイアは幼い長男ファルクと次男ウルブの世話に明け暮れ、父は1人での農業生活が手に余る様子で、子供たちと共に英国に戻ることも考える。
そこで、まずは現在の農園を売り払い、小さな土地に移るが、子供たちは、母親の思い出の残る今までの農園に留まりたいと内心思っている。
ヤコブセン監督は、後日談として、自立したロンニャが、各地の映画祭やガン患者家族の会で、自身の体験談、母親のいない喪失感との闘いについて話しているという、近況を耳にしている。
父親ニックは、農園作業と子供たちの世話で消耗気味、とうとう家での教育を諦めざるを得なくなる。そこで、学齢期の長男ファルク、次男のウルブを学校へ通わせる決意をする。
子供の方は、新しい環境に合わすのが大変で、父親にとっても、マリアの理想とした家庭内教育を放棄することは大変残念なはずである。
しかし、ウルブの初登校時、ニックが学校まで送ることとなり、校門で末っ子の様子を見ては思わず涙する。妻マリアに彼の成長を見せたかったのであろう、見ている方ももらい泣きしそうな場面だ。
日本と外国との違いが良く出ている場面に気付く。それは、この自然生活の中で日常的な家族間のスキンシップが重要であることを、作り手は主張している。この点は、欧米社会とわが国とは明らかに異なる。注目すべきは、夫と妻、兄弟、姉妹間の触れ合いである。
この日常的な身体の触れ合いが家族の絆を強く結びつけるスキンシップとなる。亡き母への思いの表われとして、作中、家族のハイキングで、父親が率先して大地に手をかざし子供たちも続く。母への「愛を捧げる」と口々に言葉を発することも愛情表現だ。
似たような行動として、子供たちが亡き母への手紙に「大好き」と書き燃やす箇所があるが、そこには愛が空間を漂うようだ。スキンシップとは相手への思いやりで、そこには、亡き人への敬意が込められ、レターを燃やす行為もスキンシップの1つと教えられる。
全体を通し、互いの触れ合いは大切な人への愛情発露であり、悲しみに耐えながら生きることの切なさと尊さが提起されている。本作は、この日常性を前面に押し出し、愛の深さを見る者に伝えている。そして、人生には様々な葛藤があり、それを乗り越えねばならぬと説いている。
(文中敬称略)
《了》
公開:4月 シネスイッチ銀座 ほか全国ロードショー
映像新聞2025年4月7日掲載号より転載
中川洋吉・映画評論家
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